朝井リョウさんの『イン・ザ・メガチャーチ』での本屋大賞受賞、そしてエッセイシリーズ「ゆとり三部作」の累計50万部突破を記念して、読者人気の高かった「ゆとり三部作」のエピソード上位3作(※)を特別公開します。 ※ランキング一覧はこちら

 読者ランキング第1位に輝いたのは、「肛門記」(『風と共にゆとりぬ』収録)。文庫本で70ページ以上が費やされた、破壊と再生の痔瘻手術体験記の冒頭を、一部公開します。

朝井リョウさんのエッセイシリーズ“ゆとり三部作”。©文藝春秋

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 時は流れて2016年の晩夏から初秋にかけて、私はなかなか働いていた。様々な業務が重なり、気付かぬうちに疲労を蓄積してしまったらしい。しばらく沈黙を保っていたど肛門ガエルがぷくうと膨らみ、大量の膿が垂れ流され始めたのだ。

 しかし私は慌てない。これまでの経験から、この痛みと膿は、一週間ほど我慢すれば収まってくれることを知っているからだ。とりあえず我慢、我慢、と唱えながら、仕事を一つずつさばいていく。ただ、膿が大量発生するころになると、下着と肛門が触れ合うだけでかなり痛い。立っていても痛い、座るとさらに痛い、むしろ歩いているときが一番痛い、みたいなことになってくるのだ。ただ「肛門不良」なんて理由で仕事を休むことができるはずもなく、どうにか工夫を凝らしつつ痛みの最盛期を乗り切るべく努めた。

 ただ、ある日、私はキレた。

 どうにか我慢我慢でやってきたのだが、あるとき、痛い! と、シンプルに、だが強烈に思った。そうするともう、ダメだった。街を楽しそうに行き交う人々の姿を見ては、何で私のお尻だけ痛いの!? ねえ!! 答えてよ!!! ねえ!!!!! という気持ちになり、見知らぬ人に詰め寄りかねない精神状態に陥ったのである。

 そもそも、このまま痛みをやり過ごしたとて、またこの日々が巡ってくることはほぼ確実なのだ。だったらもう、さくっと手術をしてしまったほうがいいのではないか。【粉瘤はもはや、私のアイデンティティを宿した相棒のような存在になっている】だなんて、そんなバカみたいな文章をしたためた過去の私はもういない。次号の「考える人」には、粉瘤はアイデンティティとかじゃなくてただのヤバめの病気なので普通に治すべきですというお詫びと訂正を掲載するべきだ。

 早速私は、ネットで探し当てた粉瘤専門クリニックに足を運んだ。粉瘤、という言葉をこの件で初めて知った私は、その専門のクリニックがあることに驚いた。目に見えるものだけが世界ではないのだ。

 専門というだけあり、このクリニックでは日帰りで手術ができるという。ありがたすぎる。予約が完了すると、「この日になれば手術ができる」「この日になれば長年悩まされていた粉瘤を完全除去できる」という思いが、日々のあらゆる困難を消し去ってくれるようになった。はあ~、楽しみが待っている生活って本当に素晴らしい! テクマクマヤコンテクマクマヤコン、早く粉瘤の手術の日にな~れ★

 やっと訪れた、予約当日。この日は子どもが産まれた友人に会う予定があったのだが、私はそれをあっさりキャンセルし、クリニックへ向かった。一緒に行く予定だった別の友人からは、【あなたが肛門の手術をしている時間も、××(友人の子ども)は大きくなっているんだよ】という連絡が届いたが、粉瘤と子どもだったら、ギリ、粉瘤のほうが成長が早い。だったらまずは粉瘤をどうにかして、そのあと、子どもに会いに行くべきである。私の肛門は成長しているどころか、もうグレているのだから。

 クリニックを前にした私は、ドラマでいえば下からのアングルで仁王立ちをしている感じであった。この入り口をもう一度くぐるとき、私はもう、これまでの自分ではないのだ。覚悟を決めた瞳で、クリニックの門を開いた。

朝井リョウ『風と共にゆとりぬ』©文藝春秋