『見えるか保己一』(蝉谷めぐ実 著)

 塙保己一。この名を聞いて、「ああ、あの」と思う人はなかなかの歴史・文学通に違いない。

 7歳で失明するも、学問による立身を志し、諸国に散逸した歴史・文学・有職故実など約1300点の書物を取り集めた叢書『群書類従』を編纂・刊行した稀代の学者。今日、我々が古代以降の様々な書物を容易に手に取ることができるのは彼のおかげと言っても過言ではなく、その事業は形を変えて現代に引き継がれている。

……とここまで読んだ読者の中には、「ううむ、時代小説は難しそうで苦手だ」と思う方もおいでかもしれない。だが、心配ご無用。本作は確かに過去に生きた塙保己一を主人公としているが、そこに描かれるのは保己一の偉業ではない。見える、見えない。主人公とその周囲との間に厳然と存在する垣根を挟んでもがき、傷つけ合い、しかし互いを求めずにはいられぬ葛藤は、保己一の事績なぞ忘れさせるほど激しく、また狂おしい。徹底して人と人のすれ違いに焦点を据え、生身の人間をむき出しに描いた物語であって、偉人伝や評伝小説にありがちな分かりやすい感動はここにはない。

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 対象を暴く冷徹な眼差しは保己一にも容赦なく向けられており、常人離れした頭脳を持つ彼は按摩や鍼は不得手で、しかも他人には傲慢かつ無理解でもある。見えぬからこその天才はおらず、その歪みが保己一の妻の、弟子の、娘の、そして友の当人ですら知らぬ内奥をも露わにしてゆく。

――あなたは目が見えていないからそんなことが言えるのです。

 苦心惨憺して作らせた『群書類従』の版木を火災によって失った際、「目明きと盲で悲しみや苦しみの重さが変わるわけじゃあない」と弟子たちを慰めようとする保己一に、ある者はそう金切り声を投げつける。何かを理解しようとすることは、ある意味では傲慢である。だが理解しようとせねば人と人は分断されたままであり、その苦心と行き違いが更なる懊悩を産んでゆく。

 言葉がぴょんぴょんと跳ねているかのような独自の文体は、デビュー以来の筆者の特色である。今作においてはその文体と、混じり合う多くの視点が華やかなる混迷を招き、彼らがもがきながら生きる世界を立体的に組み上げる。

 それにしても、見えぬからこそ分かること、見えるからこそ分からぬこと、そのもどかしいすれ違いの数々を文字、そして小説という形式で描き出した手腕にはつくづく感服させられる。文字という一種迂遠な表現が「見る」「見ない」――ひいては「理解する」「理解しない」という行動と人のあり方をこれほど有機的に立ち上がらせてくれようとは。

 小説の新たな可能性を提示する、刺激と興奮に満ちた一冊である。

せみたにめぐみ/1992年、大阪府生まれ。2020年『化け者心中』でデビュー。22年刊の『おんなの女房』で野村胡堂文学賞、吉川英治文学新人賞、24年『万両役者の扇』で山田風太郎賞を受賞。

さわだとうこ/2010年『孤鷹の天』で小説家デビュー。21年『星落ちて、なお』で直木賞を受賞。近刊に『金波銀波』。

見えるか保己一

蝉谷 めぐ実

KADOKAWA

2026年3月13日 発売