青天の霹靂だった。
2018年9月26日早朝、浅尾拓也の引退が発表された。そしてその夜、岩瀬仁紀と荒木雅博の引退が各メディアで一斉に報じられた。
いずれも中日ドラゴンズの黄金期を支えた名プレーヤーたちである。いや、それだけでは言葉が足りない。星野仙一さんが70年代から90年代のドラゴンズの顔だったとしたら、00年代以降のドラゴンズの顔は間違いなく落合博満監督と彼らである。
荒木雅博については、若狭敬一さんが素晴らしい原稿を書いてくれたので、そちらを読んでいただければと思う。今回は主に浅尾拓也と岩瀬仁紀について記してみたい。
“ドラゴンズ愛”の結晶・浅尾拓也
浅尾拓也は、野球の神様がドラゴンズにつかわした宝物のような選手だった。
最速157キロの直球に140キロ近い高速フォーク、華麗なフィールディング、どんなピンチにも真正面から立ち向かう度胸、端正なマスク、さわやかな笑顔、落ち着いた物腰、謙虚な態度、ファンを大事にする姿勢。すべてが一級品ですべてが光り輝いていた。こんな選手、他にいるだろうか。
2011年は79試合に登板して防御率0.41。背番号と同じ驚異の防御率は、忘れようと思っても忘れられない。連覇に貢献し、中継ぎ投手として史上初のMVPを獲得した。
浅尾は“ドラゴンズ愛”の結晶のような選手だと思う。ドラフト前には母校近くの恋の水神社で入団祈願し、記者会見では「中日に入ることだけを願ってました」と目を潤ませた。愛知二部リーグからずっと目をかけてくれていた中原勇一スカウトの思いに応えるためだ。引退会見では「本当に中日ドラゴンズが好きです」と微笑んだ。
完璧なスーパースターなのに、でも、なんだか見ていて胸がせつなくなるような選手でもあった。来る日も来る日も投げ抜いた。見ていて、腕がちぎれそうだと思った。年長のファンは父、母、兄、姉、先輩になった気持ちでマウンドに立つ浅尾を見守り、年下のファンは弟、妹、後輩になったような気持ちでマウンドへ向かう浅尾を見送った。
名シーンはたくさん脳裏に浮かぶが、思い出すだけで胸がいっぱいになるのが2010年のロッテとの日本シリーズの死闘だ。連日5時間近いゲームとなった第7戦では、投げて投げて投げ続けて、4イニング目でついに決勝点を奪われて力尽きた。投げた球数は前日の第6戦とあわせて96球。注目度が高かったとは言えなかった日本シリーズだったけど、浅尾のピッチングが日本中を熱狂させた。そして、負けてもなお、浅尾は美しかった。
右肩痛を発症し、思うように投げられなくなった6年間の苦悩は想像を絶する。ソフトバンクのデニス・サファテは「浅尾を毎日回跨ぎさせたのはドラゴンズの失敗だ」とツイートしたが、浅尾は引退会見で「試合数の多さのことよりも、自分を信用して、使ってくださることが、一番の喜びでした」と笑顔を見せた。ならば、信用に応えられなかった時期はなおさら苦しかっただろう。
浅尾からは信用に応えることの尊さ、そして何よりドラゴンズへの愛の尊さを教えてもらった気がする。ドラゴンズを愛し、ドラゴンズのために投げ抜き、ドラゴンズとともに輝き、ドラゴンズのために散っていった。それが浅尾拓也という選手だ。