「日本人によるユダヤ難民救出」と言えば、杉原千畝の名前を思い浮かべる人がほとんどであろう。だが、実は「ユダヤ人を救ったもう一人の日本人」がいることをご存知だろうか。その人こそ「忘れられた中将」こと陸軍軍人・樋口季一郎である。

陸軍中将・樋口季一郎 ※隆一氏提供

 しかも、樋口は「ユダヤ難民救出」の他、「アッツ島の戦い」「占守島の戦い」においても極めて重要な役割を果たした。大東亜戦争(太平洋戦争)史を通観しても、これほど劇的な生涯を送った軍人は少ない。

杉原千畝の2年前に難民を救出

 杉原による「命のビザ」発給の2年前にあたる昭和13年3月、ソ満国境の地・オトポールに逃れてきたユダヤ難民に対し、当時、ハルビン特務機関長の任にあった樋口は、人道的な見地から特別ビザを発給するよう満州国に要請。ドイツと日本の関係性を憂慮するあまり、ユダヤ難民の入国を拒んでいた満州国外交部に対し、樋口はビザ発給のための指示を与えたのであった。結果、多くの難民が命を救われた。これが「オトポール事件」である。

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隆一氏の自宅から発見された「ハルビン新聞」 ※隆一氏提供

北海道を「守った」

 その後、樋口は北方軍司令官を拝命。昭和18年5月には、アッツ島の戦いを指揮することとなった。樋口は現地軍への増援を大本営に求めたが、東京の上層部はこれを棄却。アッツ島はあえなく玉砕した。こうして樋口は「先の大戦における最初の玉砕戦の司令官」となった。多くのユダヤ人を救った男は、部下の日本人を助けることができなかった。樋口は号泣したという。

 終戦直後に勃発した占守島の戦いでは、樋口は徹底抗戦を指示。この戦いにより、ソ連軍の暴走は食い止められた。もし、この戦いがなければ、北海道が分断されていた可能性は否定できない。

 樋口とは先の大戦において、これほど重要な役割を演じた人物であった。私は樋口の生涯を考えれば考えるほど、彼ほど多くの歴史的教訓を私たちに示唆してくれる人物も稀有なのではないかと感じる。

文藝春秋 10月号

 そんな樋口は長く「知る人ぞ知る」存在であったが、近年では関心を持つ人々がネット社会を通じて着実に増えつつある。そんな中、今年6月、樋口の孫にあたる隆一氏が初めてイスラエルを訪問し、「ヒグチ・ビザ」によって救出された方々のご遺族と歴史的対面を果たした。「文藝春秋」10月号掲載の「もう一人の杉原千畝 ユダヤ難民救出『80年目の迫真証言』」では、隆一氏に現地報告の他、新たな史料や証言についても話していただいた。

ユダヤ難民遺族のフリードマンさんと対面する隆一氏 ※隆一氏提供