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「必ずしも第一人者になれないこと」を知っているということ

 若い子のほうもたいしたもので、インタビューを受けてしどろもどろになる人がいないのもまたポイントが高い。なんか「何を聞かれてもある程度受け答えができて当然」みたいな。もちろん、勝って嬉しくて興奮しているとか、負けて悲しんでいるとかはあるんですけど、それでも今回の大坂なおみさんみたいに「うわ、めっちゃいい子じゃん。これからもどんどん上を目指して頑張ってくれ」と思えるようにちゃんと考えているのがとても賢い。昔は「いや、俺はバットが恋人なんで」って朴訥に喋るスポーツマンや良しという志向もあったのだけれど、みんなきちんと考えてその分野の第一人者になっているのだなあ、と感じます。

 実際には、野球であれ他のスポーツ、特技などの分野であれ、子どものころから興味を持ち、それを実践できる環境があり、親の理解と経済力、さらには切磋琢磨できる同い年か近い年の同志がいて、子どもを適切に導ける恩師がいる。それらの条件が概ね整っていなければならず、外野でわいわい評論しているおっさんには必ずしも舞台裏が見えているわけじゃないんですよね。

 しかしながら、世の中の大多数は若いころから頑張ってきたとしても、その他大勢の一部としてピラミッドの底辺でも頑張って歯を食いしばって何とか生きてきた人たちであります。残念なことに、好きだから熱心に取り組めばどのような分野でも第一人者になれる、というほど世の中は甘くないことを身体で表しているのが私たち「これといって若いころから特定の才能で開花したわけでもないけど現在まで何となく生きてくることのできた存在」であります。

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応援団として社会の肥やしになる割り切り

 時代は下っても、若い世代には「社会的な理解のしやすさ」を求める。それは、日々を頑張って生きている、そう取り柄のない人でも立派に働いて家族を養い生きているということの裏返しでもあって、もしも若かったら才能を爆発させて周囲を驚かせている自分を思い描く庶民の夢を、若者の活躍に乗っけているのです。

 もはや、40代50代以上になってくると、若い人たちに才能で立ち向かおうなどという気概もなくなり、毒気なく応援団として社会の肥やしになる割り切りが必要なんだろうと思うのです。だってもう無理だもの。いまさらプロ野球選手にもなれなければ、将棋指したって大して強くもならない。でも、そういう人たちを応援はできる。気持ちよくプレイして、才能を発揮してもらえるような社会にしていきましょうという心がけぐらいはできると思うんですよね。

 社会で才能のある人が活躍できる環境づくりをしているのは、私らのような才能のない人たちの側であり、凄い人の足を引っ張らずに彼らも私たちも平等に頑張れる環境づくりをするのが求められているのだろうなあと感じるわけですよ。災害が起きて助け合いの募金に小遣いを突っ込むのと同様、そういう若い人たちが出てきた時にその物語性に共鳴して、もっと活躍できるように穏やかな環境を作ってあげることができるのは、才能を発揮することのなかった人たちの「度量」なのではないか、と思う次第です。

 そう思うと、炎天下での高校野球とか、若い体操選手を殴り飛ばすコーチの存在とか、もちろんいままでのしきたりや伝統はあったかもしれないけど、もう少し若い人が活躍しやすい世間様にしていければなあと考えたりするのですが。