自民党以外にも広がっていった

 森は詩人・作詞家として活動するかたわらで、群馬2区選出の自民党代議士・長谷川四郎の秘書を十数年務めた人物。1965(昭和40)年4月には30代後半で東京企画を設立し、代議士ソングの制作を本格的に請け負うようになった。その多くは森みずから作詞し、専門の作曲家が曲をつけるというかたちで制作された。1966(昭和41)年は解散総選挙が予想されており、その需要は高かった(実際には年末解散、翌年1月総選挙)。

 もっとも、制作にあたっては苦労も多かった。後援会や政治家本人から歌詞や歌手などに細かな注文が相次いだからだ。「大平正芳先生の歌」に「先生」が付いたのは、後援会が呼び捨てで歌うことを嫌ったため。また、「海部俊樹のうた」と「小渕恵三のうた」はいずれもボニージャックスが吹き込んでいるが、早大出身の政治家は、同門出身のこのコーラスグループを起用したがる傾向があった(森菊蔵「代議士ソング制作の内幕」『週刊新潮』1966年4月30日号)。

大平正芳 ©文藝春秋

 それでも、こうした注文に細やかに応じたため、東京企画は急成長を遂げた。創業当初は社員がわずか1、2人だったが、1966年半ばには「スタッフ70名をかかえ、全国民放34社と業務提携して1000名の歌手を動かすまでに成長」した(「アイデアに生きる男と女」『オール大衆』1966年7月15日号)。

ADVERTISEMENT

 代議士ソングは自民党議員のものが大多数だったものの、民社党や公明党にも例があった。1960年代に成立した新興政党にも代議士ソングは広がっていたことになる。最終的に、その総数は100曲近くに達したという。

 さらに森は、社会党にも代議士ソングを広めようと、同党トップの成田知巳委員長を「成田、成田、成田知巳はわれらの旗だ」と歌う「成田知巳の歌」を制作して売り込みをかけた。

 さすがにこれは「社会党は個人の歌はまずい。個人崇拝につながるから」と受け取ってもらえなかった。もっとも意気軒高の森社長は意に介さなかった。「毛沢東にも歌があるのを知らないのか」というのだ(吉田威夫「音頭、浪曲、軍歌調……“代議士ソング”傑作集」『宝石』1970年1月号)。

 だからこそ社会党は断ったのだろうと思うが――。森はほかにも、ケネディ、ド・ゴール、スカルノ、金日成を引き合いに出す。「東方紅」「金日成将軍の歌」などが念頭にあったのだろう。なるほど、世界のプロパガンダを調べてきた私が、代議士ソングにどこか既視感も感じたのはそういうことかと納得した。

※本記事の全文(約11000字)は、月刊「文藝春秋」8月号と、月刊文藝春秋のウェブメディア「文藝春秋PLUS」に掲載されています(辻田真佐憲「政治とメディアの蜜月」)。 全文では、下記の内容をお読みいただけます。
・朝ドラ俳優も選挙戦の応援に登場
・タレント議員が大量当選した1968年
・現代に森菊蔵がいたら……

文藝春秋

この記事の全文は「文藝春秋PLUS」で購読できます
政治とメディアの蜜月

出典元

文藝春秋

【文藝春秋 目次】高市早苗研究 裏切りと涙のサナエ劇場/米追従は自殺行為だ E・トッド/特集 70歳からが最幸

2026年8月号

2026年7月10日 発売

1280円(税込)

Amazonで購入する 目次を見る
次のページ 写真ページはこちら