――アイドルではなく、なぜ声優を目指そうと思ったのでしょうか。
中原 当時は松田聖子さんや中森明菜さんが全盛期で、アイドル歌手への憧れもありましたが、人前に出るのは苦手だったので諦めていました。一方で「顔を出さなくていい声優さんならなれるかもしれない」と考えていたんです。
実は、私の父は狩人さんの「アメリカ橋」やテレサ・テンさんの楽曲も手掛ける作曲家で、家の中にはいつもクラシックやジャズ、演歌、ポップスなど、さまざまなジャンルの音楽が流れていました。
やはり中学2年生の時、学校の課題で「仕事をしている人にインタビューする」という授業がありました。その時に父にお願いして『ムーミン』のミイ役を演じられていた声優の堀絢子さんにインタビューさせていただいたこともあり、憧れる気持ちが強くなったんです。
――では実際に、声優のオーディションを受けたこともあったのでしょうか。
中原 父から「この作品で子どもの声が欲しいからやってみないか」と、声を掛けられることもありました。今となってはもったいない話ですが、その頃の私は反抗期だったので、全部断っていました。そして高校生になると、だんだん現実が見えてきて、「自分には声優の仕事は無理かもしれない」と思いました。
それに、決して安定した仕事ではない作曲家の父を見ていて、「私は手に職をつけて生きていこう」と考えるようになったんです。昔から「困っている人を助けたい」という思いもあったので、その頃には芸能への憧れはいったん心の奥にしまい、看護師を目指しました。
看護師と兼業で劇団に所属して俳優に挑戦
――実際にその夢を叶えるまでには、長い年月があったと思います。看護師としては、どのような道を歩まれたのでしょうか。
中原 はい。看護学校へ進学し、21歳で看護師になりました。総合病院にて12年勤務した後、クリニックや健診センターなどに勤務してトータル30年。2年ほど前まで現役で看護師を続けていたんです。
――そして50歳の時に、諦めていた芸能の世界に改めて挑戦されます。最初は劇団ひまわりに所属されるところからスタートしたんですよね。
中原 実は、看護師として働きながらも「何か表現する仕事に挑戦してみたい」という思いがずっとありました。
「ガラスの仮面」という漫画のファンだったこともあって、演技の仕事がやりたくて。まずは劇団ひまわりに所属して、さまざまなオーディションを受けていきました。看護師はやめずに、兼業で始めた形です。

