《皆さん、ここで再度、あの惨禍を生き抜いた被爆者の体験に耳を傾けてください。当時16歳だった女性は優しかった姉のことを振り返ります。まるで骸骨のように皮膚が崩れてなくなり、唇のない口から歯がむき出しになっていた姉の顔は、悪夢のようで信じられなかった》
「お花畑」なのはいったいどちらなのだろう、と
核兵器の議論がいかにも「リアリズム」であるかのように振る舞う人々に、忘れてはならない現実を突きつける演説ではないか。
9日の長崎市長の平和宣言にも「現実」という言葉があった。
《核抑止力に頼れば頼るほど、核戦争の危険もまた高まる現実を直視すべきです》
ここまで読むと「お花畑」なのはいったいどちらなのだろう、とも思う。中国や北朝鮮、ロシアを見る。それも現実だ。しかし、核兵器が人間に何をするのか、核抑止が破綻すれば何が起きるのかを見ることも現実だ。被爆の現実を世界に訴え続けることこそ、唯一の戦争被爆国・日本にしかできないリアリズムではないだろうか。
さて、ここで小泉氏に戻る。「タブーなく議論」という言葉は、そもそも小泉氏自身の信念なのか。
こんな疑問を抱くのには理由がある。防衛相になってからの小泉氏には、「本当にわかっているのだろうか」と首をかしげたくなる場面が何度もあったからだ。
たとえば4月の自民党大会。現職の陸上自衛隊員が登壇して国歌を歌い、自衛隊と特定政党との距離が問題になった。小泉氏は「事前に報告を受けていなかった」と説明した。しかし当日、その自衛隊員と記念撮影し、Xに投稿していたのは小泉氏自身だった。投稿はその後削除された。事前に知らなかっただけではない。その場でも「これはまずいのでは?」と気づかなかったのである。防衛相なのに。