世界的な人気を集める一方で、多くの謎が残るヨハネス・フェルメールの生涯とその作品たち。彼が生きた17世紀のオランダは、経済の繁栄と精神の自由を庶民までもが謳歌し、約2000人の画家が活躍した“奇跡の時代”だったーー。
大阪中之島美術館にて開催中の「フェルメール《真珠の耳飾りの少女》展」によって、今再び大きな注目を浴びている画家・フェルメールを深堀りした中野京子さんの著書『フェルメールとオランダ黄金時代』から一部を抜粋してお届けします。(全2回の1回目/2回目に続く)
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最盛期のアムステルダムには700人もの画家がいた
「オランダ人は生まれついての画家」、「オランダ人は全て商人」という言葉がある。海洋貿易で世界の富を集めた17世紀のオランダ人の本質をよくあらわしたものと言えよう。
前者に関しては、絵が好きで絵が得意な国民性とあって国中に絵があふれていたこと。当然ながら優れた画家を多数輩出したこと(あらゆるジャンルで傑作を残した天才レンブラントを筆頭に、謎めいたフェルメール、オランダ風景画を確立したロイスダール、さらにハルス、メツー、ステーン、アスト、ボルフ、ダウ、ミーリスなど)。
また後者に関しては、国民の多くがプロテスタントのカルヴァン派だったため、商売で儲けることは神の意志に適(かな)うとの思想が確固としていた。一方で富のひけらかしは下品とされ、周辺国の王侯貴族とは違って、これみよがしに宝石や贅沢な衣装で我が身を満艦飾にすることは少なかった。きわめて実利的だったのだ。「割り勘」のことを「オランダ式で行う(=go Dutch)」という言い廻しもできたほどに。
当時、他国から訪れた旅行者が、小さな商店や庶民の家にさえ絵が飾ってあるのを見て驚いている。それはとりもなおさず、オランダ以外の国においては絵画が特権階級や教会の占有物だった事実を物語る。オランダだけが図抜けて特殊だったのだ。
誰もが絵画を購入できたということは、作品点数が多いこと、小型版が主流だったこと、安価だったことを意味する。後世の試算では、この時期、500万から1000万点もの絵が制作され(そのほとんどが現在では失われている)、最盛期のアムステルダム(人口20万)には700人もの画家がいたと言われる。それほど需要が大きかったわけだが、もちろん競争も熾烈だった。
工房を構えて助手を雇い、富裕層から注文を受けて大画面の歴史画や聖書画を制作する画家は一握りで、多くは得意分野を定めて、いわば薄利多売に徹した。帆船だけ、花だけ、冬景色だけ、といったふうに各自が的をしぼってそればかり描くのだ。
この点、現代日本の小説家も似ているかもしれない。推理、恋愛、時代もの、ホラー、ジュブナイルと作家ごとにジャンル分けがなされ、何百万部も売り上げる人気作家もいれば、印税だけでは生活できず他の職業と兼務する作家もいる。オランダの画家の中には戸別訪問して自作を売り歩く場合もあったようで、そんなシーンを描いた風俗画も残っている(小説家が自作を持って訪問販売するのは無理ですね)。
ちなみにフェルメールの本業は画商だったし、ステーンは醸造所兼居酒屋を経営していた。他にも金持ちの未亡人と結婚した途端、絵を描くのをやめた画家もいたという。
