東京五輪で自社のシューズを着用した選手が計46個のメダルを獲得するという快挙を成し遂げたオニツカ(アシックスの前身)。一方で、世界的に知名度が高いアディダスやプーマに対して商品の個性に欠けると評されていた。選手たちからは「アディダスの模造品」といった酷評もされていたという。

 アディダスの弁護士からもクレームが入り、創業者・鬼塚喜八郎はオニツカにしかないデザイン作りに着手したが、市場調査でも厳しい現実を突きつけられ……。財部誠一氏の新著『敗れてもまた走れ アシックス創業者 鬼塚喜八郎の情熱「オニツカタイガー」を創った「靴の鬼才」はなぜ世界と戦い続けたか』(NewsPicksパブリッシング)から一部抜粋してお届けする。(全3回の2回目/前回を読む続きを読む

アシックスの前身、オニツカを創業した鬼塚喜八郎(写真提供:ASICS)

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アディダスやプーマと比較して「個性」が劣後していたオニツカ

 あまり知られていないが、アディダスとプーマのそれぞれの創業者は実の兄弟である。兄ルドルフ、弟アドルフのダスラー兄弟が1920年、ドイツのバイエルン州でダスラー兄弟商会を創業したのが、事の始まりだ。

 しかし1948年、兄弟喧嘩をきっかけとしてアドルフが自分の名前を組み合わせたアディダスを、兄がのちのプーマを設立。アディダスの3本線に対し、プーマはフォームストライプと呼ばれるソールから出た太いストライプが次第に細く切れ上がっていくデザインで、両者とも独自の表情をもっていた。

 それに比べれば、オニツカのシューズの表情は世界を相手にするには個性が弱かった。試作品ができるたびに、神戸製鋼の選手にそれを履いて走ってもらっていたのだ。貴賓室の椅子に座りながら、目の前のホームストレッチを走り去り、さらに第一コーナーを抜けてバックストレッチを快走していく選手の足元を、林は凝視し続けた。

 アディダスの顧問弁護士からの問い合わせと相まって、なんとしてもオニツカのブランドイメージを底上げしなければならない、という喜八郎の思いは、ある出来事によって、さらに強固なものになった。

 1966(昭和41)年9月、東京オリンピックも終わり、副社長一派が退社するという騒動が少し落ち着いてきたなか、喜八郎は、ヨーロッパ、中近東、東南アジアへの市場調査に出かけた。その旅に同行したのは、これまた新卒1期生として入社した木多見昌治である。

 一気に若返ったオニツカのなかで、木多見は弱冠31歳にして貿易課長と経理課長を兼務していた。当時のオニツカの海外戦略を事実上、取り仕切っていたのは木多見である。外から見れば、そんな若輩者で大丈夫か、という向きもあったかもしれない。

 もともと喜八郎の人に対する態度はフラットで、年齢や肩書を気にすることがなかった。しかも副社長一派の退社の騒動のなかで会社に残ってくれた新卒一期生を心から信頼していたから、社員たちもその信頼に応えよう、となって、オニツカの結束力はかつてないほどに強まっていた。