1966年12月のアジア競技大会を「世界攻略の足がかり」と定めたオニツカ(アシックスの前身)。「アディダスの模造品」などの酷評を乗り越えるべく世界中の靴を調べ、そしてどこにもない新規性のあるデザインとして生み出したのが、社内公募から選ばれた「メキシコライン(現アシックスストライプ)」だった。

 港町・神戸を象徴する波とカモメのモチーフを基にしたデザインはオニツカらしさのあふれるものだったが、一方で生産現場からは複雑な模様を再現できるか疑問の声が上がっていたという。財部誠一氏の新著『敗れてもまた走れ アシックス創業者 鬼塚喜八郎の情熱「オニツカタイガー」を創った「靴の鬼才」はなぜ世界と戦い続けたか』(NewsPicksパブリッシング)から一部抜粋してお届けする。(全3回の3回目/前回を読む

アシックスはオニツカを含む3社の対等合併により、1977年に誕生した(写真提供:ASICS)

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デザインは決まったが、生産現場からは悲鳴が……

 1966(昭和41)年12月、タイの首都バンコクで開かれた第5回アジア競技大会にオニツカはサービスショップを設置し、この大会をアジア進出の突破口に位置づけた。その後も、1968(昭和43)年2月にフランスのグルノーブルで行なわれた冬季オリンピックでは、喜八郎自らが全日本スキー連盟用具委員として参加するなど、あらゆる機会を見つけて世界のアスリートやコーチたちにコンタクトをとっていったのである。

 このバンコクのアジア競技大会に並べる商品には、「誰が見ても、どこから見ても、ひと目でオニツカタイガーとわかる画期的なデザイン」が不可欠だった。そもそも林自身、「アディダスの模造品」と悪評を囁ささやかれていることが、腹立たしくてしようがなかった。

「ラインを使用しているシューズで意匠登録されている320種類のどれにもバッティングしない独創的なデザインを創ろう、とアイデアを社内募集したんです」

 自分の考えたデザインがシューズの顔になるという以上の名誉など、そうそうない。多数の応募から喜八郎は優秀作品として5人を表彰し、そのなかで1つのデザインが採用された。それは「海の波」と「カモメが飛んでいる」イメージを重ねたような、いかにも神戸という港町の会社であるオニツカらしいものだった。

 当時は東京オリンピックの次の大会であるメキシコシティーオリンピックを控えていた時期である。新しいデザインは「メキシコライン」と名づけられたが、生産現場からは不満の声が相次いだ。

「こんなややこしいものができるかいな」