バッティングピッチャーで投げるのは畠山さんとオレ

 たしかに、橋川の代を経て、徳島県下の有望選手が一様に池田野球部を志望するようになったことは明らかだ。

 とりわけ1980年春に畠山準という逸材が入学した影響は大きく、翌81年春に入った水野雄仁は池田を選んだ理由に、兄から《池田には畠山がいる。来年から3回連続で甲子園に行けるぞ》と言われたことが大きかったと公言している(『蔦文也と池田高校』畠山準・水野雄仁・江上光治)。

 畠山と水野はのちにドラフト1位指名でプロ野球に進む、全国レベルで希少な逸材であった。

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 畠山が3年、水野が2年のときに夏初優勝、水野3年時に春初優勝を果たす。水野は前掲の書で、池田が強くなった理由を話している。

《『やまびこ打線』はオフのトレーニングの成果もあったけど、練習環境に恵まれたことも大きかったと思う。だって、バッティングピッチャーで投げるのは畠山さんとオレ。高校では全国レベルにあったと自負していた》

 主戦級の投手が打者相手に投げる池田のバッティング練習の様子は、すでに述べたとおりだ。投手が力を抑えたり、打者が打てなかったりすれば、蔦の怒声が飛んだ。その環境を踏まえれば、水野の言葉にも一定の説得力がある。

水野雄仁 ©文藝春秋

定説は本当なのか?

 だが、本当にそれだけで勝てるのか。

 そう考えたとき、「(池田の定説には)フィクションも多分に含まれている」という、当時の野球部コーチ・川原良正の言葉が浮かんだ。

 蔦と酒について調べると、蔦は酒をよく飲んでいたが、酒が好きであったとは言えないこともわかった。そのようにいくつもの定説によって、蔦と池田は覆われている。土中深くに眠る遺跡のように。容易に掘り起こせないほど幾重にも重なって。

 1982年、83年の野球部員による証言は多い。練習時間の多くが打撃に割かれていたこと、蔦が金属バットの特性を見抜いたこと、筋力トレーニングを取り入れたこと。

 それゆえわたしは、語り尽くされた内容を、外側の視点から検証しようと考えた。

 定説は本当なのか。

 その問いから、池田の強さの真相に近づけるのではないか。

池田が使用していたバット「ゼットパワー」

 打撃練習が中心であったことは、複数のOBの証言から間違いないように思われた。残るは「金属バットの力」「筋力トレーニングの効果」である。

 まず、金属バットについて考える。そもそも甲子園で金属バットが解禁されたのは1974年春の甲子園後、「さわやかイレブン」で池田が準優勝した直後である。折れやすい木製バットに比べて金属バットは耐久性が高い。全国の野球部の経費を削減するために、日本高等学校野球連盟が決めたことだった。

 金属バットが解禁された当初は、使い慣れた木製バットを使う選手が多かった。が、東海大相模の原辰徳ら上位校の選手が使用するようになり、少しずつ広がっていく。

 同時に、メーカーはより飛びやすい金属バットの開発を進めた。このうち、1980年代の池田は「ゼットパワー」というバットを使っていたことで知られる。

©文藝春秋

 すると、池田の快進撃とゼットパワーをつなげて考えたくなるが、実際はどうだったのだろうか。

 手始めにわたしは、池田野球部に用具を卸していたという地元のスポーツ用品店に取材の打診をした。電話に応答した男性は、「野球部に確認して決めるのでまた連絡してください」と言った。わたしが翌週に再び電話をすると、「遠慮します。それでは」と通話を切られてしまった。

鼓膜の奥を刺激するように響く、甲高い音

 そこで、その道の専門家であり、野球用具専門店「ベースマン」立川店に勤務する星徹弥に取材を申し込んだ。

 1990年生まれの星は池田の黄金期を見ていないが、取材の打診後に、80年の創業当初からベースマンで働いていたスタッフや、80年代初頭に甲子園に出場した知人から情報を集めてくれていた。

 星によれば、80年代前後、高校野球界で広く流通していたバットは通称“ボンスラ〞ことBomslugger(ダイワ)とゼットパワー(ゼット)だった。

 1982年夏、83年春は池田のほとんどの選手がゼットパワーを使用していた。その最たる特徴は、鼓膜の奥を刺激するようにグラウンドに響く、甲高い音だ。加えて、「太く、とにかく重いのがゼットパワーです」と星は言った。