昭和の甲子園を支配した“高校野球の神様”は、聖人か、守銭奴か。

「さわやかイレブン」「やまびこ打線」で知られる池田高校・蔦文也監督の死から25年。日本中で愛された名将の実像は、関係者の取材を進めるにつれ「酒好きの豪傑監督」から「金好きな欲望ジジイ」へと二転三転していく。

 親族、袂を分かったコーチ、告発文を書いた教え子……泥臭い愛憎劇から“神様になった監督”の真実に迫る田中仰氏のノンフィクション『監督、神になる 池田高校 記憶の衝突』(文藝春秋)より一部を抜粋して紹介する。(全3回の3回目/はじめから読む

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池田の「大和寮」と「蔦寮」

 池田野球部と金について、押さえなければならない点がもう一つあった。

 寮である。

 部員数は70年代中盤まで、3学年で15人前後を推移していた。それが1974年春と79年夏の甲子園準優勝によって、池田を志望する中学生が一気に増えた。80年の新入部員は徳島県一円から集まった27人。橋川らが第一期生となった「大和寮」は77年から86年春まで使われていた。

 大和寮は、後援会長・大和真二が無償で提供した民家である。

蔦文也 ©文藝春秋

 丘に建つ池田高校の校舎を出て右に進むと、市街地につながる下りの坂道とは別に、脇道に逸れる平坦な道がある。民家が並ぶその細道を三分ほど歩いた先に大和寮はあった。

 ある政治家から大和が譲り受けたという一軒家で、1、2階あわせて7部屋ある。各部屋に1人から3人の部員が生活していた。

 大和寮とは別に、蔦が自宅裏の敷地に建てた「蔦寮」がある。蔦寮は83年春から2000年頃まで使われていた。

 80年代中頃まで、1・2年生が蔦寮、3年生が大和寮で暮らしていた。同時に、当初1棟であった蔦寮は、大和寮が閉鎖される86年春には、3棟まで増えていた。