蔦寮はどのようにして建てられたのか
寮費は月額2万5000円前後。高橋が筋力トレーニングを取り入れた時期から、朝と夕食は「レストハウス ウエノ」が提供するようになり、毎食700円でステーキやカレーが食べられた。食費は部員の保護者が1カ月ごとにまとめて支払った。
「ウエノ」は国道192号線沿いの、校舎から歩いて5分ほどのところにあった。わたしが初めて池田を取材した2025年夏にはまだ営業していたが、同年11月に閉業した。
1983年に1つ目の蔦寮が完成してから、朝食は蔦の妻キミ子が用意するようになった。米、味噌汁、おかず2品。生徒の親による食材の差し入れもあったという。部員数が最も多かった時代は、50人分の世話をキミ子がしていた。
キミ子や地元レストランによる野球部への協力は、これまで美談として語られてきた。たしかに献身を感じさせる話だ。
だが一方で、ある前提が抜け落ちているように思えた。寮の建築費である。後援会長から譲り受けた大和寮と違い、蔦寮がどのようにして建てられたのか、という点について多くは語られていない。
「そこから後ろは野球以外のことです。結局、寮です」
その経緯を知っていたのが、蔦隆司だった。
2025年11月、徳島。
応接間へ差し込む陽光に、茜色がわずかに混じりつつあった。14時過ぎからはじまった蔦の次男・隆司への取材は、後半に差し掛かっていた。
「蔦さんは70年代と80年代で、仕事が大きく変化した気がしています。野球部監督としてやりがいを感じていたのは、79年の橋川さんの代までだったんじゃないかと思うんです」とわたしは言った。
「そこまでですね」と隆司はきっぱり返した。隆司は詳細な説明をはじめようとするとき、目を閉じて考える癖があった。どう伝えるべきかを思案するように。
この質問への回答が講演会に行き着くことを、隆司は理解しているように見えた。
「そこから後ろは野球以外のことです。結局、寮です」
「寮ですか」とわたしは聞き返した。
「食事もメディア対応もありました。でもいちばんは寮です。寮を作るにしてもお金がいる。運営費もかかる。その寮を作るいうことは、学校なんかは一切できません。ましてや県立ですよ。蔦寮の建築費は100%完全な個人で支払っています。建物は1棟建てるのに1000万円くらいかかっています」
「本家の裏にある、3棟の寮のことですね」
「それ以外にもあと2つ、アパートを建てました」
