昭和の甲子園を支配した“高校野球の神様”は、聖人か、守銭奴か。
「さわやかイレブン」「やまびこ打線」で知られる池田高校・蔦文也監督の死から25年。日本中で愛された名将の実像は、関係者の取材を進めるにつれ「酒好きの豪傑監督」から「金好きな欲望ジジイ」へと二転三転していく。
親族、袂を分かったコーチ、告発文を書いた教え子……泥臭い愛憎劇から“神様になった監督”の真実に迫る田中仰氏のノンフィクション『監督、神になる 池田高校 記憶の衝突』(文藝春秋)より一部を抜粋して紹介する。(全3回の1回目/続きを読む)
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池田に匹敵する成績を持つ公立校は存在しない
70年代を監督・蔦の青春期とするならば、80年代は黄金期に当たる。
1982年の初優勝以降、池田は甲子園で勝ち続けるようになる。
蔦が甲子園でベンチから指揮したのは1988年夏が最後だ。池田が全国トップレベルにいた時代は、79年から88年の10年間だった。この間、3度の優勝、1度の準優勝、3度のベスト4進出を果たしている。
戦後の高校野球史において、池田に匹敵する成績を持つ公立校は存在しない。私学でも10年間で3度以上の優勝を果たしているのは、PL学園と大阪桐蔭、横浜、智弁和歌山といった全国区の強豪私立校くらいだ。
「池田はなぜ甲子園で勝てたのでしょうか」当時の高校野球を知る人や、池田OBにわたしが質問をすると、次のような回答を多く聞いた。
「有望中学生が池田に集まった、オール徳島だったから」
しかし、釈然としないものが残った。四国が強い時代であったことを考慮しても、それだけでは継続的に全国で勝てた理由にはならない気がしたからだ。
