「僕らにビビってました、明らかに。相手が自滅していく試合も多かったんですよ。評判のピッチャーでも、僕らと対戦する試合に限って四球を連発したり。たしかに打撃力はあったけど、半分くらいは『俺ら本当に実力で勝ってんのかな』っていう疑念もありました。言い方悪いですけど、相手が勝手に負けてくれた、みたいな……」
正直ね、と江上が続けた。
「この状態、いつまで続くんかなって。池田の時代は永久には続かないだろう。どこかで絶対に潮目が変わる。僕はそう思ってました」
もともと徳島ではダメ監督……いやダメ監督は言いすぎか
夏春連覇で池田の人気は加熱した。
取材を兼ねて大和寮に泊まり込むメディアの姿もあった。女性誌『Seventeen』まで池田を特集した。全国から指導者がこぞって視察に来た。東京から池田を訪れる監督もいた。
「蔦さんの見られ方も連覇を機に変わりましたか」とわたしは訊いた。
「池田を訪れた人たちが、僕らに質問してくるんですよ。蔦先生の練習はすごく緻密に考えられていて戦略的ですよね、といった前提で聞いてくる。いつも僕らが聞き流している蔦先生のアドバイスを、『あの言葉の真意は?』と質問攻めしてくる。実情を知っている四国放送の人とか昔から池田を取材している人たちは、聞いてこないんですけど。初めて来たようなメディアの人の質問には、神格化された蔦さんという前提がありました」
「蔦監督のアドバイスは、実際のところは深い意味があるものではなかった?」
「もともと徳島ではダメ監督……いやダメ監督は言いすぎか。結局、勝てない監督というのが蔦先生でした。甲子園の帝京戦の前かな、蔦さんがチラシの裏面にいろいろ書いていて。それを見ながら何を言うのかと思ったら『相手の一番打者は足が速いぞ。気をつけておけ』だけでした。え、真っ黒に書かれていたのに、要約するとそれだけだったのか、って。県内のチームにはサインがバレているし、サインミスもしょっちゅうだし。だからこそ僕らは蔦先生をかわいく思っていたし」
蔦が試合中に出すサインは、徳島県内の他校に見破られていた。それでもサインを変えようとはしなかった。
サインミスも頻繁にあった。蔦は盗塁を伝達したつもりであったのだろう。が、出されたサインが違うため、選手は走らない。
すると蔦は大声で叫んだ。
「走れのサイン、出しとるやろ! 次の球、走れ!」
あの頃の蔦を思い出す江上の顔は、笑っていながら、どこか突き放しているようでもあり、寂しそうでもあった。
お前らが性根入れて練習できてなかったからや
甲子園史上初の3季連続優勝が期待された1983年夏、池田は準決勝でPL学園に敗れる。0対7の完敗であった。
「敗因? 僕らのおごりです。1年生コンビがいることを知って、PLもあかんようになったなぁとか話してましたから。相手投手の桑田(真澄)に圧倒されたという感じもなかった。チャンスを作っても、ちょっとのところで打ち損じて、ことごとくゲッツーで潰れていく。試合後、蔦先生から怒られました。お前らが性根入れて練習できてなかったからや、と」
池田黄金時代の只中にいた江上も、蔦がひとりでグラウンドを整備する姿を覚えている。
昼休み、トンボをくくりつけた自転車に乗って、土を均していた。
綺麗にしたところで午後の体育でグラウンドを使われたら意味がないだろうに。不思議に思いながら、江上はその光景を教室の窓から眺めていた。
江上は今では、こう考えるようになった。
部員たちは蔦を全面的に信頼していたわけではない。PL学園に敗れた試合後には、労りのひと言くらいあってもいいじゃないか、と反発する部員もいた。
だが、ひとりでグラウンドを整備するあの情景が、部員たちが蔦を信じるよすがになっていたのではないか、と。
その他の写真はこちらよりぜひご覧ください。
