2027年に1500周年を迎える「磐井の乱」は、日本古代史の大きな転換点となる戦いであった。この北部九州を支配していた筑紫君磐井が起こした乱の原因については、大和政権による度重なる朝鮮出兵の負担への磐井の不満が爆発したという説や、磐井と新羅が連携して大和政権への反乱を企てたものだとする見方が通説とされてきた。しかし、歴史学者の水谷千秋氏は、『増補決定版 謎の大王継体天皇』で、古墳の遺物などの考古学の成果や地勢的な視点からこの通説に疑問を呈し、従来の見方に再考を迫っている。著書から一部抜粋してお届けする。

◆◆◆

独自の動きをした九州の勢力

 さて2027年は、継体天皇の時代に起こった磐井の乱からちょうど1500年にあたります。福岡県の八女市といえば、お茶の生産で知られていますが、お茶畑の広がる中に、岩戸山古墳と呼ばれる九州北部最大の前方後円墳があります。磐井の乱とは、この岩戸山古墳に葬られているといわれる筑紫君磐井が、継体朝に起こした反乱と一般的に言われるものです。『古事記』、『日本書紀』、それから「筑後国風土記」の逸文などにその戦いのありさまは詳しく書いてあります。

ADVERTISEMENT

 私は、この戦いは継体天皇ひいては古代史の大きなターニングポイントとなる戦いだったと考えております。この乱についての私の見方は『増補決定版 謎の大王継体天皇』や『継体天皇と朝鮮半島の謎』に詳しく述べました。

 そこでは、磐井の乱とは磐井を盟主とする北部・中部九州勢力が独自の首長連合を形成しようとしたことに対する大和政権の反応であり、言い換えれば地方勢力の自立化の動きを大和政権が武力で制圧したものだと述べています。

 5世紀末葉から六世紀初頭にかけて、大和政権は仁徳系王統の断絶をめぐる紛争に始まり、親継体勢力と反継体勢力との対立が続いて、混迷の時期を迎えていました。これにより一時的に地方に対する支配が弱体化した機をとらえて、筑紫君は九州北部・中部に独自の首長連合を生み出したのでしょう。大和政権がこれと対決したのが、磐井の乱なのだと私は考えています。

 これまでの研究史をみていくと、磐井の乱には大きく二つの捉え方があるように思います。ひとつは、その原因に国際的な契機を重視する見方、もうひとつは国(列島)内の要因を重視する見方です。このように分かれるのは、ひとつは『日本書紀』の記述を重視するのか、あるいは『古事記』や「筑後国風土記」逸文を重視するのかの問題もあるように思います。

磐井は外国勢力とつながっていたのか

『日本書紀』には、継体天皇の命令で近江毛野臣の6万の軍勢が朝鮮半島に出兵するのを、磐井が妨害したのが乱の始まりだとしています。その背後で新羅が密かに磐井を支援していたこと、また中央が軍事動員をかけたのを磐井が拒否したことも、『日本書紀』は乱の要因としています。こうした事態を受けて、大連の物部麁鹿火率いる軍が九州まで赴き、戦うことになります。

 これに対し、国内(列島内)的要因を重視する見方があります。こちらは、『古事記』や「筑後国風土記」の記述を重視するもので、両書にはいずれにも近江毛野臣の六万の軍勢の渡海を妨害したとか、新羅と内通していたといった記述はありません。ただ磐井が、「天皇の命に従わず、無礼が多くあった」(『古事記』)とか「豪強暴虐にして皇風(天皇の教化)に従わなかった」(「風土記」)ので、討伐したとあるだけです。五世紀中ごろから形成されていた九州有明海沿岸地方の豪族連合(有明首長連合)が強大化し、中央から自立していく構えをみせていたのを、継体天皇の下で結束を回復した大和政権が制圧したという見方です。

 かつては、前者の見方が通説的な位置を占めていたようにも思います。古くは、1951年に藤間生大氏が度重なる大和朝廷の朝鮮出兵に動員搾取されてきた西日本人民の不満が爆発したものと捉える見方を示しました。この乱を大和朝廷の外征による負担に耐えかねた地方豪族の反抗とする見方は、今も森公章さんが「度重なる朝鮮半島への派兵と、その際の九州の豪族への依存=重度の負担」を乱の原因として挙げているように、支持する論者は多くいます。

 新羅との連携についても、近年、国立歴史民俗博物館の高田貫太さんが考古学の成果から言及されています。高田さんは、古墳から発見される遺物の特徴から、とりわけ新羅と緊密だったのは玄界灘沿岸地域で、大伽耶や百済と緊密だったのが有明海・八代海沿岸であったと指摘しています。岩戸山古墳などが造られた筑紫君磐井の本拠地の八女古墳群は、高田さんによれば「大きくみれば玄界灘沿岸地域と有明海・八代海沿岸地域のはざまにあたる」とされますが、地勢的にはやはり有明海に近いとみるべきでしょう。この点からいうと、元来磐井は新羅よりは百済や大伽耶と緊密な関係にあったことがわかります。彼が新羅の「貨賂」を受けたという『日本書紀』の所伝とは整合しないのです。

「度重なる朝鮮半島への派兵と、その際の九州の豪族への依存=重度の負担」を乱の原因」とする見方にも、再考が迫られていると私は考えています。半島へ行くことが彼らにとってそれほど負担であったのか、という疑問です。

最初から記事を読む 皇室典範改正で話題に 古代史最大の謎 継体天皇とは一体何者なのか