本書のスタイルは、基本的には人物伝である。蔦文也は大正12年(1923)、阿波池田の、刻みタバコで財をなした商家に生まれた。長男で、両親に愛され、気が弱く、紅顔の美少年だったという。

 徳島商業に進学して野球部に入り、甲子園に三度行き、慶応へ進学しようとしたけれども、試験に落ちて同志社に入った(門井注、当時の同志社は現代よりももっとお坊ちゃん然とした学校だったろう)。学徒出陣で兵隊に取られ、航空隊に配属され、二度の出撃命令を受けたけれども、二度とも飛行機が故障したため生きのびた。

一升瓶を持ちながら、商店街を飲み歩いた

 復員後は、地元の池田高校の教師になった。

ADVERTISEMENT

 この就職がいわゆる「でもしか先生」だったことは本人も認めている。教師「でも」やるか、教師「しか」できないというたぐいの意欲の薄い公務員。本家のタバコ事業の利権が敗戦で無になり、所有していた田畑もGHQの農地解放でそっくり取られて、どうあっても自分で暮らしを立てなければならなかったのだ。

池田高校を3度の甲子園制覇に導いた蔦文也監督 ©BUNGEISHUNJU

 池田高校では、野球部の監督になった。これは前歴を考えれば当然のことだが、しかしどんなに猛練習しても、生徒を殴っても、チームは強くならなかった。蔦の生活は無秩序になった。

 ある日は一升瓶を持ちながら、ある日はすれ違う人に嘲笑の言葉をぶつけながら、蔦は栄町通りや駅前商店街を飲み歩いた。

 蔦文也、おそらく40歳前後のことである。かつての紅顔の美少年が、どうしてこんなことになったのか。〈つづく

次の記事に続く 「ほめちぎる人も、酷評する人も…」今も証言が割れる甲子園の名将…酒びたり中年男のチームが、夏春連覇の名門校になった“知られざるウラ側”