――激務で体調を崩されたこともあったようですが、編集者として、忙しくも充実した日々を過ごされましたね。
船曳 毎日夜まで働いて、そのあと新宿で大勢で呑んで、どんなときも小田急線の最終電車で帰る。それが当たり前でした。
「太陽」創刊のときは、編集部員がなんと35名いました。『百科事典』の編集部や美術全集、考古学大系、教育学事典といった部署から人が集まる。みな1人1冊本を書ける教養と知性を持った人の宝庫でした。その人たちが“無学”の私に教えようとする、それは大変でした。
顧問の林達夫先生は皆に尊敬されている方ですが、随分可愛がっていただきました。「林先生は大切な人で1分の無駄も出来ないのだから、お前と喫茶店でお茶を飲んでいる暇はないんだよ。気をつけなさい」と、言われましたね。
船曳 みやこうせいさんのルーマニアの写真、素晴らしいでしょう。みやさんは盛岡のご出身。農牧民の風習、伝統、生活に魅せられて、半世紀以上ルーマニアに通われた方。この「村の牧夫の娘 マリア 1990年」は、5歳の少女が羊に向かって「ママのところへいらっしゃい」と話している。この歳で既に2匹か3匹受け持たされているのね。みやさんとは、ルーマニアへも何度かご一緒しました。
この舩木研兒のピッチャーは、廊下の本棚から、いつも眺められるように移したのです。それも陶板を買ったときの第一の買い物です。土門先生にほめられました。
見るたびにいいなあと思う。私が死んだらどうしよう、と考えたとき、急に執着心がわいたの。骨董屋が来てわーっと分類して、先ほどの魯山人も何もかも、散逸してしまうかもしれない。そうしたら、私が持っていたことの意味がなくなってしまう。
「これいいですね」と土門拳の眼を通ってきた、「ものを見る眼」の眼を大事にしたい。そしてその作品を作った人の思い――ゴミにしては申し訳ない、という気持ちでした。
『一〇〇年前の女の子』に書きましたが、実の母を知らず継っことして育った母は、足利女学校に入れたことで、人生を救われたと思うのです。その母のふるさとである足利の美術館に、大切な品々を寄贈し、皆さんにこうして見ていただく機会をつくれた。感性が響き合って共鳴してくれた足利市立美術館のキュレーター・江尻潔さんのおかげです。
――今回の展示で、見ている方に何を一番伝えたいですか。
船曳 一つは、写真の素晴らしさ。一瞬が生きとどめられて、言葉では表せないものも、写真では伝わります。
もう一つは、それを言語化する必要がある――これは今回の展示にあたって私がしていることです。言葉を大切にしたい。言葉をもっている人たちを、私たちは顧みなさすぎる。結局はその人たちが書いた本にたどり着きます。書物のもつ力を通して、いま世に忘れられたかに見える人、詩人、作家、評論家、学者といった人たちへの卒塔婆を立てているような気持ちです。
私は平凡社と集英社で学恩、社恩を受けたと思っています。学ぶことから感じる恩、会社から受けた恩、人間の集まりが作り出したものから受ける恩それが「太陽」が象徴しているものです。そこで私の人生が育てられました。編集者だったから、いろいろな分野の人と出会い、仕事をしてきて、こういうものが集まった。その証のようなものを展示したい。それは結局、日本の文化をもう一度振り返って考えることになります。
ぜひ多くの方に、足利市立美術館に足を運び、展示を見ていただきたいのです。
INFORMATION
〈8人の写真家たち 「船曳由美―小さきコレクション」を核として〉
2026年9月5日(土)―12月27日(日) 足利市立美術館
https://www.watv.ne.jp/ashi-bi/
『一〇〇年前の女の子』 各紙誌で絶賛されたロングセラー、待望の文庫化
中島京子「年老いた母と娘で織り上げた、稀有な物語。一〇〇年前、日本はこんなに「豊か」だった――」
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