『黒川能 1964年、黒川村の記憶』(船曳由美 著)集英社新書企画室単行本

 山形県月山の麓にある黒川村で五百年以上、村民により行われて来た王祇祭という祭を現地へ乗り込み、そこへしばらく住み、村民と知り合い、語り、飲み、飯を食い、観て、記録したこの本には、旧暦の正月である二月に行われる祭のことが、そこで奉納される能のことが、事細かに事細かに書かれてある。人間は自然と人間(もちろん人間も自然の一部だ)との間でだけ生きるにはあまりにも過酷で、過酷だ、過酷でしょ? だから年に一度か二度、何年かに一度でもいい、人間を超えるもの、人間ではないもの、人間よりずっと尊いとされるもの、そうしたいもの、それは神と呼ばれたりする、そのような存在、そうしたものがある、いる、と思える瞬間を必要とするのじゃないか、とあらためて思い知らされる。そのためにならどんな苦労だっていとわない、その日があるから過酷な日々を過ごせる、労働と労働のわずかしかない合間に、習得の難儀な技術を身に入れて、それが本職でもないのに真剣に、楽しくない、つらい、揉めもおそらくする、出て行った人もいる、しかしそれこそが、楽しい、だと教わり、知り、そしてようやくやって来たその日、祭の日、面をつけて、舞う。

 黒川という土地に続く、続いて来た、父さん母さん爺さん婆さん、そのずっと前から続くその仕組み、おそらくそれは、わたしたちが多くの場面で面倒くさいと捨てて来たもの、つまんねえと投げ出して来てしまったもの、古いと燃やしてしまったもの。それらが、それらこそが、わたし、をときに救うのだと知るのは、その外へ飛び出してしまったとき、そのようなもののない土地に、ない時間に、人間としてあらわれてしまったとき、あらわれてしまったと知るとき、こうしたものを読んだとき、そうとは知らずに流してしまった、燃やしてしまった、わたしたちは何も知らないのに、知らないくせに。

 わたしは能を知らない、わたしの生まれた国には古来から伝わる演劇がある、能がある、だなんてとても言えない、あるらしいとしか言えない、だいたい見てもわからない、浄瑠璃や歌舞伎ですらわからない、ましてや能などわからない、能など誰にもわからないのかもしれない、わからないからする、わからないがする、しかしそうすることで誘発される何かがどうやらわたしたちには内蔵されていて、そして恐るべきことにそれは人間によって内蔵された、だから人間は、そういうものがあるとどこかで知った人間は、人間だけが、念入りに念入りに準備をして(そのおそるべき平等、仕掛け、仕組み!)、犠牲を払い、何年何十年何百年と続けて来た。

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 そのようなものが身近にあった場所へ人間としてあらわれた事を、呪いと誤解すらするであろう掟を、わたしは非常に羨ましく思う。

ふなびきゆみ/東京都生まれ。1962年東京大学文学部社会学科卒業。平凡社に入社し「太陽」編集に携わる。86年より集英社で『ユリシーズ』『完訳ファーブル昆虫記』などを担当。退職後の2010年、母親の生涯を描いた『一〇〇年前の女の子』を上梓。

やましたすみと/1966年兵庫県生まれ。劇団FICTION主宰。「しんせかい」で芥川賞。都内でたまに演劇ワークショップ「ラボ」開催。