戸田村には高校がありません。中学3年の終わりに、下宿するために定期船で沼津に向かいました。ここに戻ってくるのはいつだろう。たぶん死ぬときだ。外で何かをして、死んで、骨を埋めに戻ってくる。そういう覚悟で戸田を出ました。
沼津での高校生活は不安から始まりました。田舎からやってきて、親元から離れ、世の中との繋がりが何もない。大袈裟ですが、独り下宿の身で、天涯孤独という始まりでした。そんな時、出会ったのが「数学」です。右も左も分からない世の中にも、しっかりと掴むことができる「理」があると感じました。
マッチ棒が立ち上がった
そんなある日、同級生から「6本のマッチ棒で正三角形を4つ作れ」という問題を出されました。下宿で6本のマッチ棒を目の前にして、考えました。あれこれ、マッチ棒を動かしましたが、せいぜい正三角形を2つ作るのが関の山。手を動かすだけだと埒があきません。そこで、「理」を使って考えました。愚直に4つの正三角形を作るんだったら、12本必要。でも与えられているマッチ棒は6本。どの1本も2本分の役割をしなくてはならない。どの1本も2本分の役割……? ここまで来た途端、急にマッチ棒が立ち上がって正四面体を構成し、見事に正三角形が4つ完成しました。
ロジックを詰めて、それを跳び箱の踏み台のようにして、ジャンプするとすごい世界を見られる。この発想は私の方法論の一つになりました。
大学は東京大学理科一類に進みました。入学当初は建築学科か数学科に行くつもりだったのですが、教育に心惹かれて、教育学部へ進みました。
卒論では、当初、数学を教えるためにアニメーションを活用する研究をしようとしましたが、1970年代当時、そんな試みは、教授たちには全く受け入れられませんでした。大学に残って教育の研究を続ける道は、諦めざるを得ませんでした。
教育の道に進めないとなり、がっくりきた私は、こんな自分でも社会を少しでも動かす小さな歯車になろうと思い、サラリーマンを目指しました。世の中の仕組みも知りたかった。企業名もろくに知らない学生が必死になって就職活動をし、それで入社したのが、広告代理店の電通でした。1977年のことです。配属は、チラシの印刷やお菓子のおまけを作るセールスプロモーション局。花形ではありませんでしたが、モノを大量に作って大量に届ける面白さを知りました。
※続きでは、電通入社後の佐藤さんの重要な転機となった出来事や、養老孟司さん、小沢健二さんとの交流などについても語られています。
約6500字の全文は、月刊文藝春秋のウェブメディア『文藝春秋PLUS』と『文藝春秋』2026年10月号に掲載されています(佐藤雅彦「数年に一度、大きいのがボンと来る」)。
※佐藤雅彦さんが登場したグラビア「日本の顔」もぜひご覧下さい。
■さとうまさひこ 1954年生まれ。東京大学教育学部卒業後、株式会社電通に入社。独立後は、慶應義塾大学や東京藝術大学で教鞭をとり、表現研究を続けながら多彩な活動を行う
