鹿の逃げた方向は崖だが、首を伸ばして下を見下ろそうにも木々が邪魔して谷底までは見えない。
血痕を頼りに鹿を追い詰める
「血の量が少ないため軽症かも知れず、そうなると追い付けないかも知れない。今この鹿を追えば、今日はもうM沢には到着しないだろう。M沢周辺にも鹿はいる。鹿を撃てば、熊も待てる。この鹿を追って谷底に下りれば、熊を狙うことは出来ない」。
色々考えた。しかし、半矢の動物を放っておくのは違うと思い直し、ザックを背負い、進んだであろう崖を下りていく。
100mほど歩いた辺りから血があった。「ヨシっ」と心の芯に火が灯るが、血痕を見失わないように丁寧に追う。時刻は14時を過ぎ、北東に拓けたこの谷にはもう光が差さない。
谷底に下り立つ。耳を澄ませると、15mほど先から藪を漕ぐ音が聞こえた。音は不規則。鹿は傷ついた不自然な姿勢で走っていることが予想される。
距離5m、「頭を撃とう」鉄砲を構える
獲物との距離がここまで近くなると、最後は形振り構っていられない。小川にバシャバシャ入りながら、全力疾走で追いかける。手負いだからとて、ナイフでトドメを刺そうとは思っていなかった。
ここまで走れるなら、バイタルに弾は入っていない。致命傷ではない。火事場の馬鹿力のようなもので、傷ついた動物は時として途轍もない力を発揮する。下手をすると逃げられる。「次に姿が見えたところに二の矢を入れよう」と、薬室に次弾を装填していた。
獣が止まった、気配がした。緑の若葉をしだれさせる杉の幼木の下に鹿は横たわっているようだ。これ以上興奮させないようにと忍び足で近付く。姿が見えた。
地面に身体を横たわらせ、首を起こしてこちらを見ている。距離5m。「頭を撃とう」と鉄砲を構え、倍率4倍のスコープを覗く。
轟音とともに鹿の頭がのけ反った
目が合った。鹿の顔立ちは凛々しく、黒い眼は真っ直ぐに私を見ていた。諦観、狼狽、憤怒、そのどれでもない表情。目が口よりもモノを言った。逡巡している暇はない。引き金を引くと、轟音とともに鹿の頭がブオンッ! と、のけ反った。