各方面から注目を集める文筆家の伊藤亜和さんと、文芸評論家の渡辺祐真さんの対談が実現。後篇では、エッセイならではの表現の難しさや、書き続けるための工夫、これまでの伊藤さんの作品と新刊『魔女になりたい』の決定的な違い、そして生成AI全盛時代におけるエッセイの価値など、「書くこと」をめぐって様々なテーマで語り合います。(全2回の2回目/1回目から読む)
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エッセイの窮屈さから脱するために
渡辺祐真さん(以下、渡辺) エッセイだとどうしても「伊藤亜和であること」が付きまといますが、それが窮屈だと感じることもあるのでしょうか。
伊藤亜和さん(以下、伊藤) それは最近すごく感じます。エッセイとは「その人が書いている」ことが重要で、その上で「書いてあることが事実か」が読者にとっても評価軸の一つになってきますよね。でも、本当のこと、事実というのはあくまで私の目から見た事実であって、他の人から違って見えた場合に、エッセイの価値はなくなってしまうのかな?と思うことがあります。だから、その窮屈さから逃げたいという気持ちが『魔女になりたい』でエッセイの合間に書いたショートストーリーになったのかもしれません。
渡辺 あるインタビューの中で、エッセイに登場する友達に原稿を読んでもらった時に、「そういう文脈で言ったんじゃないけど書いていいよ」「亜和ちゃんの中での真実なら書いていいよ」と言われたという話をされていたのが印象的でした。それってエッセイにおける「本当さ」とは何なのかという、すごく微妙な話でもありますよね。
伊藤 難しいですよね。今までは幼少期のことなど過去のことを書いてきたので、ぼんやりとした記憶をもとにエッセイとして自由に書けたんだと思います。ただ今回の『魔女になりたい』は最近の話で、最近のことは鮮明に覚えているから変えられない。そういう苦しさ、窮屈さは出てきました。それに、登場人物に気を遣って実際よりも「いい話」として書いていくと、どんどん自分の仕事が“宮廷画家”みたいになってしまう気がしていて(笑)。
渡辺 確かにハプスブルク家の宮廷画はどんどん格好良くなっていきますよね(笑)。一方で、今回の『魔女になりたい』は「魔女になりたい」という“願望”が描かれているし、身近な日常のことにとどまらない「なぜ私は魔女になりたいのか」「魔女とはどのような存在なのか」といった、より未来的で哲学的な思索が増えた印象を受けました。これも窮屈さから脱したいことの表れなのかなと。
伊藤 まさにそうですね。私というものから抜け出して、自分以外の何かになりたいという強い願望が芽生えたのだと思います。


