1983年に起きた「新日本プロレス・クーデター事件」。過激な仕掛け人たちの権力闘争と選手たちの反乱劇、その引き金を引いたのが、アントニオ猪木のサイドビジネス「アントン・ハイセル」の巨額赤字だった。

 契約金1500万円の超大物ルーキーとして入団した谷津嘉章のプロレス人生もまた、この団体の暗雲と無縁ではいられなかった。宝島社の新刊『証言 アントニオ猪木 1983年新日本プロレス・クーデター事件』より一部抜粋してお届けする。(全2回の1回目)

アントン・ハイセルとは何だったのか? ©getty

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ハイセルの説明会で選手・社員に協力を求めた猪木

 アマチュアレスリングで2大会続けてオリンピック日本代表に選出された実績を誇りながら、谷津嘉章のプロレス人生は決して順風満帆ではなかった。その背景には、新日本プロレスを揺るがしたクーデター事件の影響があったことは否めない。

 1980年、谷津は、アントニオ猪木、坂口征二が居並ぶ豪華な記者会見で、契約金1500万円の期待の大型新人として新日本に入団。新人としては異例の扱いで、入団してすぐに海外武者修行に出発した。

「俺は最初からアメリカなんだよね。80年の11月30日にニューヨークのパット・パターソンのところに行って、そこでプロレスの仕組みをイチから教えてもらった。ロープワークとかドロップキックを覚えたくらいですぐにローカルの試合をいくつかしたら、年末に正式にデビュー戦だよって言われた。こっちはまだプロレスのことをなんにもわかってないのにだよ」

 80年12月29日、谷津はニューヨークのマジソンスクエアガーデンでプロデビューすると、「ザ・グレート・ヤツ」としてWWF(現・WWE)のツアーに参加し、半年ほどサーキットに同行。

 81年6月24日に一時帰国し、蔵前国技館で猪木とタッグを組み、アブドーラ・ザ・ブッチャー&スタン・ハンセン組と対戦。しかし、国内初お披露目の試合はいいところなくブッチャー、ハンセンに一方的に血だるまにされ、谷津の評価は散々だった。試合後、谷津はすぐにアメリカへ戻され、武者修行を続けることになる。

「あの日本デビュー戦はひどかったし、意味がわからなかった。新日本は俺をどうしたいんだってね。だからアメリカに戻されてホッとした部分もあって、気持ち的にはアメリカでの武者修行が続いてよかったよ。

 アメリカにいた時に、新日本の状況を俺に吹き込んでいたのはキラー・カーン。日本とアメリカをカーンさんは行き来してたから、今あいつはこうなっているとか、いろんな情報や噂話を教えてくれた。俺とカーンさんは、アメリカで一緒に住んでた時もあったしね。ただ、カーンさんはいつも愚痴ばっかりなのよ。『こんにちは』という挨拶の代わりに愚痴が出てくるから。それにケチでギャラの文句ばっかり言ってた。今思うと、俺がカーンさんから聞いてた情報というのは、だいぶ偏ってたような気もするよ」

 82年3月、谷津は凱旋帰国し、新日本のMSGシリーズに参加。この時期、すでに新日本の内部では、アントン・ハイセルの資金調達や運用が問題となっていたという。

写真はイメージ ©AFLO

「ハイセルに猪木さんが資金を突っ込んでいるという話は聞いていた。だって猪木さんは巡業バスの中でも『バイオエネルギーの時代は必ずやってくる』とか『俺はエッソやシェルよりもカネを稼ぐんだ』って口癖のように言ってたからね。この頃だったと思うけど、京王プラザホテルでハイセルの説明会があった。そこで猪木さんが熱弁をふるって、レスラーとか関係者がいる前で『頼む』と頭を下げた。『みんな俺に協力してくれないか』という話になったんだよね」