累計700万部を突破した「陰陽師」シリーズの著者・夢枕獏さんによる最新刊『おくのほそみち』が発売されました。刊行を記念して、小説家の武川佑さんによる書評を公開します。

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 『おくのほそみち』は葩瞧(ばしょう)なる渡の俳諧子が、北のどこかにあるみちのくを目指して旅する8篇からなる小説である。

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 旅姿の葩瞧が負う笈には、葩瞧を「おとっさん」と呼ぶちいさき者「空」が納められており、旅の目的が空の生き返りをはかるため、みちのくにあるという、おおそれ山に連れゆくこと――ということがわかってくる。

『おくのほそみち』(文藝春秋)

 各篇はほぼ葩瞧の一人称で語られている。作者の『陰陽師』で、安倍晴明邸を訪れた人(あるいは人ならぬ者)が語るパートを、全篇に拡大した様子を想像してほしい。

 『陰陽師』では晴明がだいたいにおいて怪異を解き明かしてお話が終わるが、本作は葩瞧が遭遇した奇怪な出来事、謎が解き明かされぬまま、旅人は笈を背負って過ぎ去る。そのさまがなんとも物悲しく、澱のように心に残る。

 もとより、旅とはそのようなものかもしれない。

 たとえば、2篇目の「多食津比売(おほげつひめ))」では、宿を求めた家の女主人が、葩瞧に「食事を用意する厨を見るな」と言いのこす。葩瞧は厨を覗き、女が吐瀉物や鼻汁、大小便から酒や食べ物を産みだすところを目撃してしまう。村人らから山刀を渡され、葩瞧はケの姫=女を殺してくれと請われる。穢(ケ)の姫はマレビト、すなわち外界からやってきた客人でなくては殺せないのだという。おののく葩瞧は逃げ出し、追いかけてきた女は葩瞧の手にある山刀に身を投じ、自害のようにして死す。彼女の死体からは粟や小豆、大豆など「種々(くさぐさ)の味物(ためつもの)」が生じ、これで飢えずにすむと喜ぶ村人を置いて、葩瞧はまた旅路を歩きだす――といった具合だ。

 作中に登場する神々や出来事のおおくは、『古事記』やアイヌ神話、また諏訪神話など縄文時代の神仏や習俗などがモチーフとして織り込まれている。オオゲツヒメ(『古事記』では大宜津比売神)は名の通り、汚いと激怒してスサノオがオオゲツヒメという女を殺してしまう『古事記』のエピソードが基と思われる。

 スサノオが出てきたので、最終話に登場する哭きいさちる神についてもすこし触れる。哭きいさちる神とはなにか。『古事記』において火神カグツチを産むさい、母神たるイザナミは体や陰部に火傷を負って死んでしまう。母が死んで児のスサノオは泣き止まず、父神イザナギが困り果て、どうして言いつけを守らずに泣いてばかりいるのだ(「何に由りて汝は事(こと)依(よ)させる国を治(し)らずて、哭きいさちる」)と問い、スサノオは私は「妣(はは)の国」に行きたいので泣いているのです(「僕(やつかれ)は妣(はは)の国根の堅(かた洲(す国に罷らむと欲(おも)ふ。故(かれ)哭く」)と答える。この問答にある「哭きいさちる」とは、すなわちスサノオ、作中「ひよ……、ひよ……」といじらしいような泣き声で現れる凄ノ尾のことなのだ。恐ろしい姿とアンバランスな泣き声を見たとき、評者はたまらなく切なくなった。同時に「ひよ」という二文字を泣き声として表した作者に畏怖した。

 まさに神の声を授かるシャーマンの業(わざ)の領域ではないか、と。

 こう見るとなあんだ、『古事記』も本作も「妣(はは)の国」への恋い慕い、つまり母胎回帰の物語かと誤解する人があるかもしれないが、違う。民俗学者の折口信夫は「妣(はは)の国」とは「われわれの祖(おや)たちの恋慕した魂のふる郷」であって、「心身ともに、あらゆる制約で縛られている人間の、せめて一歩でも寛ぎたい、一あがきのゆとりでも開きたいという解脱に対する惝怳(しょうこう)」(「妣(はは)が国へ・常世へ」1920)なのだという。日本思想史を研究する板東洋介は、この折口の説を引き、『古事記』に現れる天神や天皇による世を「とりかえしがたく喪われたそのあとをとぼとぼと繕ってゆく営み」として語っていると説明する(『日本思想の核心 この生をいかに耐えるか』P26)。