とぼとぼ、という表現が、評者には本作と重なるのである。行く先もさだかならず、しかしそれでも歩み続ける葩瞧と空の旅路と。
この奇妙で、切なさ、悲しみ、愛おしさ、人の奥底に眠る感情をかきたてる小説をどうして作者が書いたのかは、あとがきに詳しい。はじめ「縄文小説」を書こうとした作者は縄文祭祀など残された史料の少なさに、《結局、味付けを“縄文”にしただけの異世界ファンタジーのようなもの》になってしまうのでは、と危惧する。
また作者の俳句や縄文神話への興味、大病の日々を率直に書き綴ったエッセイ『仰天・俳句噺』ではその危惧から、『おくのほそみち』への構想について縄文時代、糸魚川の翡翠を運ぶ旅商人と、ファンタジーとしての芭蕉の「おくのほそ道」を一つの物語として書いたのだと述べている。
江戸時代中期、俳諧師松尾芭蕉と弟子曽良の元禄2(1689)年~4年、江戸を発ち歌枕をめぐる東国行脚、通称「おくのほそ道」。一方『おくのほそみち』作中には酒角(宝井其角、芭蕉の弟子)や子奇(正岡子規)、墟子(高浜虚子)など、俳諧師、俳人の名を持った存在も登場する。
俳句と縄文、一見離れたテーマについて、作者はあとがきで佐佐木幸綱と金子兜太の対談を引いている。
佐佐木「俳句は、本質的ではアニミズムなんではないですか」
金子「そうなんだよ。アニミズムを無視して俳句を作るなと言いたいぐらいです」
そして作者は「この世の様々な事物や言葉、現象、社会的ないとなみに、精霊が宿るとそれが“季語”になるのだとぼくは思っている」と述べている。つまり俳句は本質的に縄文的アニミズムから生まれたと考えているのである。
これは評者も同感で、評者がやっている連歌での言葉になるが、南北朝時代に連歌論を大成した公家で歌人の二条良基は歌論書『筑波問答』で次のように述べている。「連歌は前念後念をつがず。また盛衰憂喜、境をならべて移りもて行くさま、浮世の有様にことならず。昨日と思えば、今日に過ぎ、春と思えば、秋になり、花と思えば、紅葉に移ろうさまなどは、飛花落葉の観念もなからんや」。また謡曲「箙」では「飛花落葉の無常はまた、常住不滅の栄をなし」とある。流転する無常は逆説的に不滅となり、景物の語(のちの季語)とは、循環する気を捉え、定型という一種の「呪」に閉じこめ言祝ぐ呪法なのである。
作者こそ、太古よりの営みを語り、神を捉える語り手=シャーマンに等しいといってもいいかもしれない。
本作において、葩瞧はいつどこで、誰に向かって語っているのか――判然としない。あるいはその語りは、ろくろを回したり釣り具をいじるのが好きな小田原在住のある男が筆を、いや万年筆を取り柔和な顔立ちに微笑を浮かべ、語り出すようでもある。
どこからか風が灯火を揺らがせ、万年筆を走らせる音ともに、訥々と声が聞こえてくるのである――。
「一生の旅でいいんだねえ」と。
武川佑(たけかわゆう)
1981年、神奈川県生まれ。書店員、専門紙記者を経て、2017年、甲斐武田氏を描いた書き下ろし長編『虎の牙』でデビュー。同作で、歴史時代作家クラブ賞新人賞、21年『千里をゆけ くじ引き将軍と隻腕女』(文庫化にあたり『悪将軍暗殺』に改題)で日本歴史時代作家協会賞作品賞、25年『円かなる大地』で大藪春彦賞を受賞。その他の著作に、『真田の具足師』『龍と謙信』『悪行の王』などがある。