1936年に愛人関係にあった男性を絞殺し、局部を切り取って世間を震撼させた「阿部定事件」。稀代の“悪女”として語り継がれる彼女は、各地の色街を転々とした芸者時代には「粋な人」と語られ、事件後に開いたバーでは「普通のお婆さん」だったという。ノンフィクション作家の八木澤高明氏が、彼女の足跡を訪ね歩いた。文庫新刊『殺め家』(鉄人社)より、その一部を紹介する。

「ずいぶんと粋な人だったと聞いてますよ」

 阿部定は1905(明治38)年5月28日、東京・神田に生まれた。実家は畳職人の家で、父親は腕のよい職人だった。常時5、6人の職人を雇い、商売は繁盛していたという。

悪女と呼ばれた阿部定の人生とは―― ©文藝春秋

 男関係にだらしない娘を見かねた父親は、「そんなに男が好きなら芸妓にでもなれ」と、彼女を芸者として横浜に売ってしまう。その後は富山、長野県飯田、大阪飛田、兵庫県丹波篠山、神戸、名古屋と流れ、15年にわたって体を売った。

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 八木澤氏は、事件を起こすまでに阿部定が歩いた道をたどる旅に出た。長野県飯田市には、かつて彼女が芸者として身を置いた三河家がある。今は蕎麦屋となっているが、創業者の一族は変わらない。四代目店主の妻は、先代の女将から聞いた話を語ってくれた。

「食事は賄いが出たんですけど、わざわざ外に洋食を食べに行ったり、ビリヤードをやってから、銭湯に行くのが日課だったようですね」

 プライドも高かったようだ。三河家での源氏名は静香で、「静香さん」という指名がなければ動かなかったと伝わっている。気前もよく、着物の帯に入れた金を「お小遣い」と言って渡したり、時計を贈ったりしたこともあったという。

 当時の飯田は生糸や材木の商いで賑わい、ビリヤード屋が2軒あった。三河家の目の前には、彼女が通った洋食屋の精養軒もあったそうだ。

 三河家店主の和夫さんは、東京で修行していた頃、晩年の阿部定が経営するバーに顔を出したことがある。東京オリンピック前のことだという。

「三河家の倅ですなんて言わなかったですよ。ほんの小一時間、店に行っただけですよ」

 どんな人なのか、見てみたかったのだと和夫さんは話す。そこで見た彼女は、「普通のお婆さんだったよ」。

 なぜ彼女は、あの事件を起こすに至ったのか。そのきっかけは、名古屋での出会いにあった。

(つづく)

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