「胡散臭さ」と多様な健全さ
さまざまなジャーナリストが独立して取材するからこそ、当局の側も「適当な発表では批判されかねない」と襟を正す。「いまの政府は比較的正しい発表をしているのだから、ジャーナリストなどいなくても大丈夫」というのは、画餅にすぎない。かれらの存在は、大本営発表の防波堤なのだ。
サラリーマン的な視点からみれば、とくにフリーのジャーナリストの言動には奇矯なところ、もっといえば「胡散臭い」ところもあるかもしれない。
だが、常識的な価値観や画一的な枠組みに囚われていないために、独特の視点で、他にはない取材をして、新しい問題も発見・指摘できるのである。「胡散臭さ」は、かならずしもマイナスではない。
ある種の変わり者たちが、社会の豊かさ、多様さ、健全さを支えてきた歴史もある。ジャーナリストについても、ある程度寛容になったほうがよい。まして今回の安田氏は実績もあるのだから、なおのことそれが当てはまる。
「俺は気に入らない」と言ってるに過ぎない「自己責任論」
これに比べ、今日の「自己責任論」は果たして公共的な議論なのか。単に、ネット上で荒れ狂うトロール(ネット暴徒)たちの、都合のいい棍棒になってはいないか。
国に迷惑をかけるな、われわれの税金を使うな、などの決まり文句もそうだ。クレーマーは、かならず主語を大きくする。「国民は〜!」「納税者は〜!」「消費者は〜!」。その実、ほとんどが「俺は気に入らない」といっているにすぎない。
それなのに、この手の言葉は政治権力と歪に結びつくと、医療費の問題などに応用されかねないし、場合によっては「政府の見解や勧告に歯向かうな」との主張につながりかねない。たいへん危うい。
今日はAを叩き、明日はBを叩く。そんな彷徨えるトロールたちをすぐになくすことはできないが、少なくともそれらと距離を取ることはできる。その一歩として、安易な「自己責任論」との訣別を呼びかけたい。そちらのほうがよほど公共的である。