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バブルも終わりを迎える頃、こだわりのクリーニングへ舵を切った

 今から約50年前。中学の卒業式を終えた翌日、少年は息つく間もなく新潟・南魚沼の実家を飛び出した。自立心だけは旺盛だった。

「農家のね、次男坊だったの。だからもう家にいらんないな、と思って。とにかく田舎を出たかったんだ。あの頃だから、蒸気機関車で『雪国』で有名な清水トンネルを抜けて……、見送りにきた親父とお袋に『(煙が入るから)戸、閉めろよ!』なんて言われたっけ」(求さん)

 

 世田谷の“叔父貴”が経営する「大番(おおばん)クリーニング店」に身を寄せたのが、バンクリーニングの始まりだ。転々と修行を積むうち、新宿7丁目で閉店する店を引き継がないかと誘いがあった。当時20歳だった求さん。開店資金などあるはずもなかった。不安な気持ちで実家を訪ねると、農家だった父は何も聞かずに180万円という大金を用意してくれた。その優しさが求さんを本気にさせた。

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 時は昭和40年代。かつて「西洋洗濯店」と呼ばれたクリーニング店は、機械化が進み、大手業者が次々参入する開店ラッシュ。新宿の店には、歌舞伎町やフジテレビから衣装が引っ切りなしに持ち込まれた。そんなある日、お酒を飲むことだけが楽しみだったという求さんの目に止まった一人の女性がいた。

「無垢な人が来たもんだ」

 この人こそ、青森を出て服飾の専門学校を卒業し、アパレルメーカーで働きながらアルバイトで来ていた哲子さんだった。

 25歳と22歳で結婚。二人の子宝に恵まれた頃、時代はバブルの全盛期を迎える。夕飯はいつも22時過ぎ。二人娘はいつだって首を長くして両親の帰りを待つ毎日だった。とにかく数をこなすのに精一杯で、シミなど気にも留めず「落ちないものは落ちない」と強気で突っ返していた。激動の時代を文字通り「生き抜いた」のだ。

須藤哲子さん

 ところが、そんなめまぐるしい時代の中で、夫婦はふと立ち止まった。「お客様に本当に喜んでもらいたい」、いつからかそれが二人の合言葉になっていた。ちょうどバブルも終わりを迎える頃、数が勝負の世界から、こだわりのクリーニングへ舵を切った。

「まあ、性分だろうね。あれ(哲子さん)も、うるさいからね(笑)。変な駆け引きゼロだから。着る時にお客さんに辛い思いさせたくないとかさ、完璧主義だもん。いつからか私もそっちの方へ引き摺り込まれちゃって、アハハ」(求さん)