「首から下が動きを取り戻す可能性は7%。可能性のない希望を持たせることはいたずらに遠回りさせるだけ」

 医師からこう伝えられたのは中村淳さん。高校ラグビー部の練習試合中に頚椎損傷事故にあって救急搬送された中村周平さんの父親だ。

「ドクターから伝えられた言葉をなかなか言えなかった。もし自分がその立場なら心が折れるのでは、と思った」(淳さん)

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 周平さんは、2002年11月、高校2年生の時に重傷を負った。紅白戦の終了5分前だったという。意識が回復するまで周平さんは寝言を繰り返した。「体を起こして! 前へ! 前へ!」。ラグビーのことがほとんど。ただ、一度だけ父親のことを言ったのを淳さんは記憶している。「お父さんはいい人生やったね。僕の人生は終わったよ」。それに淳さんは「君が動いていないといい人生じゃない」と返事をしたが、その反応はなかった。周平さんはそのことを覚えていない。

機能回復を信じてリハビリを重ねる

 日本体育大学スポーツ危機管理研究所が主催する「学校・部活動における重大事故・事件から学ぶ研修会」が11月7日、同大学の世田谷キャンパスで開かれた。テーマは「部活動中の重大事故と体罰の問題について考える」。集まった学生を前に、周平さんがマイクで思いを語った。

自身の体験を語る中村周平さん ©渋井哲也

「半年間、病院生活を送ったが、ラグビーで鍛えた体が1ヶ月で骨と皮になった。当初は精神状態がよくなかった。何より辛いのは、これから先にやっていくものがないということ。ただ、ベッドで寝ているだけで、生きがい、やる気が削がれていった」(周平さん)

諦めずにリハビリをすることで……

 医師には動く可能性は低いと言われたが、周平さんは機能回復を信じてリハビリを重ねる。理解のある鍼灸師に出会ったり、頚椎・脊髄損傷者の機能回復を支援する人に会いに行ったり、アメリカへ渡り専門的なトレーニングを受けたりした。在宅でもリハビリを継続する。福祉制度を利用し、ヘルパーを活用した。

「家族との関係では、イライラや葛藤を両親にぶつけた。そんな中で心身ともにお互いに限界を迎えていた。そんな中で助けになったのは、同じ障害を持った人たち。“こんな風に生活をしている”という話を聞くことで、見えない中で光を見つけたような感じがした。また、ヘルパーが入ることで生活が変わり、両親とのわだかまりが減っていった。諦めずにリハビリをすることで、両腕を動かせるようになり、電動車椅子を動かせるようになった」(同)

研修会は日体大スポーツ危機管理研究所が主催した ©渋井哲也