「遺言状」のつもりで書いた『ファザーファッカー』
つい最近刊行された『ファザーファッカー』文庫新装版のあとがきで、精神科医の斎藤学さんに「被害当事者の声」と書いていただきました。斎藤さんからは、私のような養父からの体験は決して特別なことではない、と教えられて、本当に気持ちが楽になりました。性的虐待のような家族の内奥に籠もる問題は表に出ることがないだけだ、と。
ただあの作品が話題になったおかげで、それ以降、私が何を書いても体験を書いている、ととられてしまうんですね。
――『ファザーファッカー』のときは、「遺言状」のつもりで書いた、とおっしゃっていました。
漫画家になった私の稼ぎに依存する母と妹
内田 自分に子どもがいないまま死んでしまったら、私が稼いだお金が全部、母たちに行ってしまう、といたたまれなくなったんです。当時もう、母と妹は漫画家になった私の稼ぎに依存していました。ここで母にされたことを世間に出さなければ、死んでも死にきれない。養父の行為を黙認した母が何よりいやがったのが、世間体でしたから。最初に書き上げたものは、税理士に渡しました。その後、熱心に小説を勧めてくれる編集者がいて、あらためて一から書き始めたのですが、7年くらいかかりました。完成稿を書き上げたときは、もう最初の子供が生まれていたので、当初の目的は消えていて、もういいや、という気持ちもあったのですが……。ちょうど仕事以外で初めて海外に行くことになったので、何かあったときのためにと、出発前に一気に書き上げて編集者に託したのです。
母親と絶縁して32年、母への最後の苦情
――いま内田さんは当時のお母さんの歳を越え、ご自身4児の母でもあります。また本書の執筆中に大腸ガンが発覚し、人工肛門を造成することになりました。
内田 27歳で母親と絶縁して、32年。たしかに、これが母に対する最後の苦情ということになるでしょうね。しかし、『ダンシング・マザー』は創作の部分が圧倒的に多いですから。物語は、母の幼少期、戦前から始まるので、当時のことも調べました。その後、最初の夫である私の実父と、ダンス講師の職を求めて故郷から長崎に出てきた時点では、私は影も形もありません。その後も当然、私がいない場面が出てくるわけですから、たぶんこう思っていただろう、と推測するしかない。
それと、母親になったから分かったこともあるかもしれませんが、分かるから書けるというものでもない。子どもがいなくても、子どもの描写に定評のある作家の方、いっぱいいらっしゃるでしょう。
『ファザーファッカー』のときは、何度も「これが親のすることか」と泣いたりしていましたけど、『ダンシング・マザー』は最後の最後の校正ゲラのときに、「かわいそうな人だな」とちょっと泣けてきたぐらいですから。