1988年8月28日。日曜日の朝、スポーツ紙と地元紙の朝刊一面に載ったスクープがすべての始まりだった。『流通の巨人』ダイエーが長く低迷の続いていた南海ホークスを買収、本拠を大阪から福岡に移すというものだった。
博多っ子が愛したライオンズ(西鉄→太平洋クラブ→クラウンライター)が西武に身売りし、所沢に去って10年が過ぎていた。プロ野球の興行は、かつての本拠地平和台球場を舞台に細々と続いてはいたが、博多のファンは声を嗄らして応援できる球団の再訪を待ち望んでいた。このニュースに地元が熱狂したのは当然で、平和台に駆けつけて涙を流すオールドファンまで現れた。
後に知ったが、南海ファンは大いに落胆したという。同じ関西の、羽振りが良かったダイエーが業績低迷に苦しんでいた南海の肩代わりをするのは理解するが、なぜ本拠を福岡に移す必要があるのか? と。それこそがダイエーの総帥・故中内功氏の目論見だったのだが、それは後述しよう。
なぜ福岡に? 中内氏が描いていた夢
当時私は地元放送局のアナウンサーだった。後発局で社員は少なく、何でもやらされた。アナウンサーも記者の仕事を分担。1988年といえば入社10年目で、始発の市役所担当から警察や遊軍を経て経済回り3年目だった。日銀の定例会見や財界団体、地元中小企業などを取材していたのだが、前年の初夏くらいから取材各所で“ある噂”を耳にしていた。「以前から続く球団誘致運動が現実味を帯びてきた。活動の中心はJC日本青年会議所のメンバー」というものだった。JCには財界2世が多い。財界の各所で噂になっているという事は信憑性が高いと感じた。ただ、どこの誰と交渉しているかは判らぬまま年を越した。そして夏、あのスクープが“炸裂”したのだった。
福岡にプロ野球が戻ってくる。地元マスコミは沸いた。報道デスクから「南海ってどんな選手がいたっけ? 成績は? 福岡や九州に縁があるのは誰?」などスポーツ担当や遊軍に矢継ぎ早に指令が飛ぶ。私も担当の財界を取材し、誘致の中心メンバーに辿り着いた。そして、地元グループは中内氏の「密使」と連携し、意を通じて行政や地元財界に根回しを続けていた事が判った。となれば、大阪で球団を買収して本拠をプロ野球空白区の福岡に移すだけが目的とは考えにくい。
答えはペナントレースが終った秋、正式に福岡ダイエーホークスが誕生した直後明らかになった。初年度からしばらくは平和台球場を本拠地とするが、近い将来、福岡市早良区百道浜から中央区地行浜一帯の臨海埋め立て地区に新球場となるドーム球場を建設。合わせてもう一つドーム施設を建設しテーマパークや複合商業施設を収め、側にホテルなどを併設するという一大プロジェクトが発表された。それが『ツインドームシティ計画』だ。
これこそが中内氏の夢だったのだ。球団誕生当時中内氏は66歳。一代で巨大流通グループを築き上げ、当時の年商は4兆8千億円だった。中内氏には潤氏と正氏という二人の息子がいる。脱流通を果たし、新たなビジネスモデルを構築した上で『代替り』したい。潤氏に用意したのが地元神戸に劇場を核にホテルや商業施設を併設した新神戸オリエンタルシティであり、正氏に任せようとしたのが福岡でのツインドームシティ計画だった訳だ。
いま福岡ヤフオクドームが建つ臨海埋め立て地は既に完成していて、翌89年の春から秋まで『アジア太平洋博覧会』の会場となった後は、新たな街区を整備する予定だった。この埋立て地の存在を知った中内氏は、広くアジアを商域とした計画の舞台としてこの埋立て地に白羽の矢を立てたのだ。