引退後、自らに課した「マイルール」
誘われたものはすべてやってみる――。
現役引退後、今浪隆博は自らに「マイルール」を課したという。元々は「失敗したら、どうしよう?」と思い悩むタイプだった。しかし、せっかく自分が求められるのならば、その期待に応えたい。できるかどうかはわからないけれど、できるだけのことはしてみよう。自分で自分に言い聞かせるように、半ば強引にマイルールに忠実にここまでやってきた。
「せっかく、メンタルやマインドの勉強をしているんだから、まずは自分を変えてみよう。自分がどう思うかではなく、クライアントがどうとらえたのか? そこを大切にして、何でもやってみよう。そう考えて、頼まれたものは極力何でもやってみることにしました」
今浪の言葉にあるように、彼は今、メンタルコーチとして第二の人生を歩み出している。2007(平成19)年、日本ハムからスタートしたプロ野球人生は、17年オフにヤクルトのユニフォームを脱ぐことで終わりを告げた。以降、アスリートのメンタルコーチを目指して勉強の日々を送った。そして今、「メンタルを支える人になる」という思いで、毎日を生きている。彼の名刺の肩書きは「スポーツメンタルコーチ」とあり、裏面には、こんな文章が並んでいる。
選手時代の自身の病気の経験から、アスリートが抱える『メンタル面』での問題を解消し、より高い成果を出すためのサポートをしたいと、この仕事を始めました。
そして、こんな言葉が続いている。
今の『自分』を変えて『結果』をだしてみませんか?
だからこそ、今浪は「まずは自分を変えてみよう」と考え、「誘われたものはすべてやってみる」という思いで、現役引退からここまで走り続けてきた。引退したばかりの昨年、彼は文春野球に「代打」として登場。自分がしゃべったことをインタビュアーがまとめる形式ではなく、自らパソコンに向かって3000字程度のコラムを綴った。
「もちろん、コラムなんか書いたことなんてないですよ(笑)。でも、できるかどうかよりも、とにかくやってみよう。そんな感じです。自分の満足感を求めるのではなく、文春野球の読者がどう受け取るのか? それだけを考えていました。自分の満足感や充実感って、それほど大切じゃないんです」
その言葉の一つ一つは、さすがメンタルコーチとして研鑽を積んでいる者ならではの言葉だった。
大胆に勝負できなかった現役時代
名刺の裏に書かれているように、今浪がユニフォームを脱ぐきっかけとなったのは、病気――甲状腺機能低下症による慢性甲状腺炎――が原因だった。ファンに向けてきちんとあいさつすることもできず、引退セレモニーを行うこともない突然の引退劇。だからこそ、「誌上引退会見」を行うべく、この文春野球に登場してもらった。
それは、「今浪チルドレン」と呼ばれる今浪のファンだけでなく、多くのヤクルトファン、野球ファンの胸に刺さる率直な思いが述べられたものだった。このときはインタビューを行った上で、僕がまとめたものだった。しかし、それ以降はすべて彼自身が書いたものだ。また、引退後にはさまざまなイベントに呼ばれるケースが増えた。元々、頭の回転の速さには定評があり、シニカルで少々の皮肉交じりのトークは好評を博している。
「引退直後は、“メンタルコーチになろう”という思いだったのに、それ以外にテレビでの解説、コラムを書くこと、イベント出演、講演、野球教室など、予想以上に仕事の範囲が広がっています。“自分には無理だ”と思うことに挑戦することは意外と楽しい。やってみると、新しい発見がある。めちゃくちゃ慎重派の自分が、こんなにいろいろなことができるなんて、まったく想像もしていなかったですね」
――現役を引退したときには、まさか、自分がコラムを書くなんて想像もしていないですよね(笑)。
そんな冗談を投げかけると、今浪は大きく笑った。
「してない、してないです(笑)。難しかったけど、初めてのことをやる楽しさが大きかったです。それにしても、まさか自分がコラムを書くなんて……。このときもやっぱり“失敗したらどうしよう”という思いが真っ先に浮かびました」
小さく苦笑いを浮かべながら、今浪は言った。コラムの依頼を受けたとき、最初に浮かんだのが「失敗したらどうしよう?」という思いだったという。そして彼は、現役時代の例を挙げた。
「野球の試合において、選手たちは一瞬の判断に迫られることがあります。プレーの選択です。自分の現役時代を振り返ってみたときに、もっと大胆に勝負すべきところで、勝負できない自分がいました。ランナーがいて前進守備で守っている。たとえば、僕はサードを守っています。で、バントが自分の前に転がってくる。打球を捕った瞬間、すぐに考えるわけです。“セカンドに投げるか、ファーストに投げるか?”って……」
今浪の話を聞きながら、僕の頭の中には背番号《59》を背負っていたかつての雄姿が鮮やかによみがえってくる。