「長いようで短かったですね」

 高校・大学で約6年間のマネージャー生活を終えて、国学院大の高橋将大(たかはし・まさひろ)はそう呟いた。「早く終わんないかなと思った時もあるし、大学最後の1年は良くも悪くも充実していて短かったですね」と正直に明かした。チームに複数人いるマネージャーのトップである主務を1年間務めるまでになった高橋だが野球経験は一切ない。高校1年生までラグビー部にいた。

リーグ優勝は叶わなかったが主務として大きな役割を果たしきった高橋将大(本人提供)

 小学生時代はまったくスポーツ歴が無かったが、姉と同じ国学院久我山中に入学したことをきっかけに「面白そう」とラグビー部に入部した。国学院久我山高校はラグビーファンなら誰もが知る名門校。中学ラグビー部も小学生時代にラグビースクールに通っていた選手も多く集まっており、当初は練習についていくだけで精いっぱいだった。それでも部活にありがちな“ただただ外周を走る”などといった無意味な練習も無かったため、前向きに楽しく取り組み、その魅力にどっぷりとハマっていった。

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「今でもラグビーは大好きです。15人がそれぞれの特徴を出せるし、プレーが止まることも少ないから観る方としてもすごく面白いんです」

 だが中学2年の冬。腰痛が続き病院へ行くと椎間板ヘルニアと診断された。そのため、そこからは選手ではなくサポート役に回り練習の補助や審判役を担った。もちろん試合に出られない悔しさはあったが日々は充実していた。チームも東日本大会で勝ち進むなど中身の濃い時間を過ごすことができた。

 高校でも迷わずラグビー部に進んだ高橋だったが、そこではあまりマネージャー、自身の存在は必要とされていなかった。監督との衝突も度々あり、12月に退部した。

「野球部にはお前の居場所がある」

 その後は変わらずに登校していたが、久々に何もない土曜、日曜そして冬休みを過ごし物足りなさを感じていた。そんなある日の昼休み、中学3年の時の公民の担任で、高校の硬式野球部の前監督である高良武士先生が声をかけてくれた。中学ラグビー部の土屋謙太郎監督と高校時代の同期で懇意にしており、高橋の状況を伝え聞いていた。

「新2年にマネージャーがいないんだ。野球部にはお前の居場所がある」

 高良先生のその言葉を5時間目と6時間目はずっとを考えていたが決断は早かった。

「やりたいことをやってみたい」と帰宅後には不安視する母親も説得した。

 こうした縁で野球部に入部することになった高橋だったが「最初はマジで仕事が無かったです」と振り返る。

「野球をやってきた人って幼い頃から整理整頓を教えられていたり、自分たちで行動することが普通なので、やることがないんです」

 前年の秋に23歳の若さで就任した尾崎直輝監督も高校時代は腰と肩の怪我で学生コーチをしていただけに裏方にそうした役割は求めていなかったという。

「例えば練習をもっと効率的に行うためのタイムマネジメントとか、選手たちが見えない部分を見てあげるとか、チーム管理を担ってもらおうと。マネージャーに対して“お手伝いさん”という感覚は今も当時もまったく思っていません」

 国学院久我山高はロッテ・井口資仁監督らを輩出し春夏合わせて6回の甲子園出場を誇るが、一方で偏差値71の伝統ある私学名門校でもあるため高い学力も求められ、練習時間は平日・土日ともに3時間以内。特に平日は18時半で完全下校となるため時間の使い方は強化に欠かせない要素となっている。

 そこで高橋はまず片っ端からお願いされた仕事をすべて丁寧に行い、信頼を勝ち取っていった。また最上級生となって任されることも増えると「尾崎さんのやらなければいけないことを1つでも減らそう」と先回りして行動するようになった。練習メニューを決めるのは尾崎監督だが、時間の割り当てを決めるのは高橋。その日の選手の調子や片付け、着替えの時間を想像した。このことはラグビーの経験が生きたという。

「ラガーマンと言っては競技歴が少ないと思いますが……(笑)。でもラグビー は15人がみんなで同時にプレーするから、周りを見て今何ができるかと考えて行動することは身についていたのかもしれません」

 目標としていた甲子園出場は最後の夏に西東京大会準決勝で敗れ叶わなかったが、「やり切った」という思いで涙は一切出ず、「ナイスゲーム! 胸張って帰ろう」と号泣する選手たちを励ました。