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 2016年7月12日、小高区は一部の土地を除いて避難指示が解除された。半杭さんは半ば壊れた自宅を解体し、この年のうちに新しく家を建てた。そして、市役所を定年退職していた昌子さんと2人で帰還した。

 しかし、酪農を再開する気にはならなかった。「牛を置いて逃げ、見殺しにしてしまった」という心の傷が深すぎたのだ。

避難指示解除後も、酪農は再開しなかった

 隣の集落の酪農家は、父と息子で飼っていた180頭の乳牛を餓死させた。半杭さんはこの酪農家の息子が「福島第1原発の廃炉作業が始まったが、また暴走して避難することになるかもしれない。二度とあのような思いはしたくないから飼わない」と語るのを聞いて、その通りだと思った。

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 父子の牛舎では避難中、勝手に入った人が牛の死骸を撮影してインターネットで流した。それを見た父がショックを受けて体調を崩し、入院した。ただでさえ傷ついていたのに、心をえぐられる思いだった。酪農家を苦しめたのは東電ばかりではない。

「当分、牛を飼うことはない」と大富酪農研究会では太陽光発電を誘致した

 避難指示の解除後、大富酪農研究会のメンバーも次々と帰還したが、5軒とも酪農は再開しなかった。「誰も牛の話をしません。したくないし、できないのです」と半杭さんが説明する。

 気持ちの問題ばかりではない。原発事故から9年が経ち、酪農家としては引退時期を迎えた人もいる。小高区内では他の農業の再開も進んでおらず、牛舎の敷き藁(わら)が手に入りにくくなった。設備も直さなければならず、巨額の費用が必要になる。

 にもかかわらず、牛舎は4軒が壊さずに残した。「牛が最後の命を刻んだ、あの柱がある限り、私には壊せません」。半杭さんは絞り出すように語る。

「無念」と刻まれた石碑

 市のまとめでは、今年2月末時点の小高区の住民登録者数は7376人で、被災前の半分近くに減った。そのうち区内の居住者は3663人で、被災前の3割に満たない。

 海岸に近い集落は津波で壊滅し、多くの人がよそに移住した。山側の集落は、区内でも放射線量が比較的高かったため、住民の帰還が進まない。大富集落では70戸のうち18戸が戻ったに過ぎない。商店がずらり軒を連ねた中心街でも、建物が解体されたままの空き地が目立つ。このため4校ある小学校は来春、1校に統合される方向だ。

まるで牛を撫でるかのように「無念」の碑に手をやる半杭一成さん。「避難せざるを得ない」と獣医に連絡した時、「無念です」と言われた。その言葉が忘れられない

 半杭さんは、牛舎が見下ろせる高台に石碑を建て、牛が餓死した経緯を記して「無念」と刻んだ。「牛舎はやがて朽ちてなくなるでしょう。私ら夫婦もいずれいなくなる。でも、石に刻んでおけば、ここで起きた悲劇と無念の思いは、100年後にも伝わるはずです」

 原発事故からまだ10年も経っていないというのに、私達はあの日のことを忘れ始めている。復旧すらままならず、苦しみ続けている人がたくさんいるのに、むしろ見ないようにし、聞かないようにしてこなかったか。半杭さんらの9年間と今の姿は、私達自身が胸に刻み込んでおかなければならない事実だ。

撮影=葉上太郎

後編に続く

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