白紙の「伝言板」は何を示しているか?
「伝言板」と書いて体育館に張り出した模造紙も何枚か展示されている。ただ、何も書かれていないか、書かれていてもほんの少しだ。このようなモノに何の意味があるのか。
宮城県や岩手県の津波被災地区では、真っ黒になるほど書き込みがあった。携帯電話は通じない。家が流されてどこに避難したか分からない。そもそも生きているかどうかも分からない。必死の思いで家族や知人を探し、また伝言を残す人が多かった。
一方、浪江町では書く間もなく、逃げなければならなくなった。隣の双葉町と大熊町にまたがって立地する東電福島第1原発の暴走が止まらなくなり、発災翌日の3月12日午前5時44分、政府が原発から10km圏に避難指示を出したのだ。
浪江町は中心街も避難
「同年末に博物館で調査した時、浪江中学校の体育館は、避難した時のままでした。卒業式で歌われた曲の楽譜まで残されていました」と、筑波学芸員は語る。
避難所で開かれた臨時学級
原発から40km以上離れた同県相馬市の旧高校校舎は、避難指示区域を脱出した人々の避難所になった。ここに逃げてきた小学生を対象に3月29日から4月14日まで、臨時学級が開かれた。
同市の娘宅に避難した南相馬市の女性小学校教諭が、旧高校校舎に教え子を訪ねたのが開設のきっかけだった。南相馬市は相馬市の一つ原
教諭が勤務していた小学校のPTA会長も、たまたま相馬市内に避難しており、話し合って臨時学級を開くことにした。相馬市内の民家に避難していた子も集まり、寺子屋と呼ばれた。展示された児童手書きの名簿には20人近くの名前が記されている。
低学年(1~2年生)、中学年(3~4年生)、高学年(5〜6年生)の3クラスに分かれ、ボランティアの教師が担任した。南相馬市から避難した教諭は中学年を受け持った。名札は段ボールを切って作った。
最初は鉛筆しかなかったが、支援物資が届いてノートが行き渡った。時間割を決めて授業し、生活のパターンを整えると子供達は落ち着きを取り戻していった。
「人間らしくあるためには、鉛筆やノートがとても大切だと実感した」と、筑波学芸員はこの教諭から聞いた。ただ、気になることがあった。