新型コロナウイルスの蔓延で打撃を受け、5月末での閉館を決めた水月ホテル鴎外荘。東京・上野の不忍池からほど近い、約80年の歴史をもつ老舗旅館だ。敷地内には客室数100室強の宿泊棟が建ち、森鴎外の旧邸も丸ごと保存されている。鴎外が『舞姫』を執筆した部屋「舞姫の間」をはじめ、明治の古き良き時代の香りを残す宿として、リピーターも多かった。

 閉館の一報は3月中旬、利用客のツイートによって一気に拡散され、以来閉館を惜しむ声がSNSを中心に広がっている。

 相次ぐキャンセルを受け、このタイミングで自らの歴史に幕を下ろすことを決めた鴎外荘。22年間にわたり女将をつとめた中村みさ子さんには、“やり残したこと”や“心残り”はあるのだろうか。閉館を前にした心境を聞いた。(全2回の2回目/前編から続く

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中村みさ子女将

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――閉館のタイミングを5月31日とされたのには、何か理由があるのでしょうか?

中村みさ子女将(以下、女将) 3月中旬に閉館することを決めた時点で、できることならすぐに辞めたい、というのが本音だったんです。社長(※女将のご主人・菊吉さん)も、そのように言っていて。ただ、それではこれまでお付き合いいただいてきた方々にご迷惑をおかけすることになります。社長も、「そうした閉め方をしないのは、私たちが最後にお見せできる誠意なんだ」と言っています。

――従業員の方たちも、閉館の決定に驚かれたのではないでしょうか。

女将 そうですね……。ただ、このタイミングでうちが閉めるのは、一つは鴎外の旧邸を残していく、という使命を守っていくためではありますが、もうひとつは、いま一緒に働いているスタッフたちが、ここよりももっと良いところ、幸せなところに働きにいけるように、という思いからでもあるんです。社長もスタッフのことはすごく考えていますが、一方で現場では「後ろ向きになるな」「みんな気持ちが閉める方向に動いているぞ」と、毎日喝を入れています。

客室の窓からは満開の桜が覗く

「私のやれることはやってきたかな」

――閉館を前に、女将のなかで何かやり残したな、心残りだな、と感じていることはありますか?

女将 心残り……。それはもちろん、寂しいという気持ちはあります。でも、お客様に対しては、私のやれることはやってきたかなという思いもありまして。お客様が必要とするものを、どうやったら渡せるか。それは反対に、必要としないものを渡さない、ということでもありますが、そうしたことを考えながら、私なりに心を尽くすことはできたかな、と。

 こうした仕事ですから、あるときには、お客様に啖呵を切ることもあったし、「お金はいらないから帰ってください」と言ったこともあります。15年くらい前かな、その頃には暴れるようなお客様もいて。最近ではありがたいことに、そうした方はいらっしゃらないんですけど、女将になりたての頃は試されていたのか、そういうこともありました。