女将 いえいえ。私はお酒も飲めませんし。こういうと失礼ですけど、度胸のいる仕事だと思っていましたし、私には向いてないなぁと。でも気づいたら、私も経験値を積んだんでしょうかね、今では「女将適任ですね」なんて言われるんです(笑)。それも全部、お客様に鍛えていただいたおかげなので、感謝しかないです。
――「お客様に鍛えられる」とは?
女将 私、アルバイトの面接でいつも言うんです。「ダイヤモンドはダイヤモンドでしか磨かれないように、人は人でしか磨かれない」って。こんなにもお客様が、私たちを磨いてくれる職業はないのよ、と。この仕事は、過分な評価もたくさんいただきますけど、辛いことも言われます。それでも、どんな場にいても、自分の立ち位置とか、自分がここで何をしなければいけないかとか、そういう世の中が見えてくる、人が見えてくるという点では、この仕事は最適だと思います。
残された時間でどうしてもやっておきたいこと
――お客さんと関わる中で、女将としても少しずつ磨かれてきた、と……。最後に、5月の閉館まで、あと2ヶ月弱になりました。それまでの間に、一番やっておきたいことは何ですか?
女将 やっておきたいこと……。そうですね。実は私、取材をお引き受けするのは、もうやめようかなって思ってたんです。「あそこ、相当苦しかったみたいだよ」という風に捉えられてしまうのは、本当のことではあるけれど、私たちの思いとは違います。でも反対に、「私たちは前向きに頑張ってます」という部分が取り上げられてしまうのも、今の世の中の状況の中では、やっぱり申し訳ないんです。ただ、そんなことをちらっと社長に話したら、何を言っているんだと怒られまして。これは外出自粛の話が出る前のことですけど、社長が、「5月31日までは、お客様が一人でも使って下さったら、その分、社員の退職金の上乗せになるんだよ」って。私もそうだなと思い直しました。
それでも、こうしてお話をさせていただこうと思った一番の理由は、やっぱりお客様なんです。どうしても、自分たちだけでは、ここが閉館するということをお伝えしきれないんですよ。一部の方……たとえば、「女将さん、疲れた時に食べてね」と、お漬物を送って下さるお客様もいらっしゃいます。そうした方は、そのときの宅配便の伝票があるので、私からお手紙が出せるんですけれど、団体のお客様のお一人お一人みたいな、全ての方にはお伝えしきれない、という現実があります。ですから、こうしてお話しすることで、それが少しでも多くのお客様の目に留まったらいいな、と思っています。
これまで本当に多くの方々にお世話になりました。鴎外荘をご愛顧いただきました皆さまに、心から感謝をお伝えしたいです。
撮影=榎本麻美/文藝春秋
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