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コーラの缶だらけの池袋のアパートで……

 2人は上京したものの、なかなか一旗上げることはできなかった。池袋の家賃6万8000円のボロアパートで同居する日々は9年を超えた。2人の苛立ちは募り、精神状態も極限まで追い込まれていたと、貝山さんは語る。

デビュー当初の宣材写真。伊達はメガネをかけていなかった(貝山さん提供)

「2007年の春、サンドの2人から『兄さん、話があります』と連絡してきました。ただならぬ雰囲気を感じて、仙台から彼らの住んでいる池袋の部屋に急いで行きました。部屋に入ると、足の踏み場がないほどコーラの空き缶が転がっていました。やはりコーラを飲みながら2人と話していると、不意に富澤が『もう辞めます』と言い始めた。『いろいろな大会で俺たちが一番ウケたのに上にいけない』と、後輩が出演しているテレビを見ながら悔しそうに言うんです。正直、腐っていましたね。あとで聞いた話では、サラリーマンだった伊達ちゃんを誘ったのに何も結果を出せていないことに責任を感じていて、富澤は自殺まで考えたようです」

 追い詰められる2人に、貝山さんは次のようにアドバイスしたという。

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手前は貝山さん(貝山さん提供)

「僕は『M-1にあと2回出られるんだから(当時の出場資格は結成10年以内)、トライしてもいいんじゃないか』と勧めました。2人からは『東京でダメだったら、仙台でローカルタレントになるって約束、兄さん覚えてますよね?』って言われましたが、そう口にする富澤と伊達ちゃんの表情に余裕はなかったですね」

 狭い部屋で男3人が話し込み、気が付けば深夜になっていた。富澤が「兄さん泊まって行きますよね?」と寝床の準備を始めた時、棚から何かを取り出した。

「富澤が真顔で『今日は兄さんが来ると思って、奮発して新しい枕を用意しておきました』って出されたのが新品のティッシュ箱(笑)。そのときに『もう精一杯やったんだから仙台に帰って来い』って心の中で思いましたね。2人の間に僕が挟まって、川の字に横になったので、夢なんか語り合おうかなって思っていたら、2人は寝ちゃってました(笑)。いろいろ話してすっきりしちゃったんでしょう。

初舞台でネタがスベってはにかむ伊達(左)と富沢(貝山さん提供)

 あいつらは、仙台に帰るための身支度をし始めていたんだと思います。それで『最後の最後で連絡を』と思った中の一人が僕だったんじゃないかな」

 実際にこの年の夏から、サンドは故郷での再出発を視野に入れ、仙台のテレビ、ラジオ局すべてに頭を下げて営業に回ったという。その時に唯一、レギュラー枠を与えてくれたのは仙台市内の小さなコミュニティFM局だった。同年7月から始まった初の冠番組「サンドウィッチマンのラジオやらせろ!」(fmいずみ797)は、売れっ子芸人となった現在も続いている。

「富澤は仙台に戻って芸人以外の仕事をする気でいたから、ノーギャラでも伊達ちゃんと地元で一緒に番組が出来るってすごく喜んでいた。あの番組は、苦しい時に助けてもらった恩があるからと、ずっとノーギャラで出演しているそうです」