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 野木が『さよならロビンソンクルーソー』で第22回フジテレビヤングシナリオ大賞を受賞したのは2010年。当時35歳だった。それから10年しか経っていない。

「フジの応募要項は『自称35歳まで』なんです。当時は他にもいくつか脚本の賞があったけれど、その後の生き残り率や、深夜ドラマを書かせてもらえそうな枠があったから、ほぼフジ一点突破で」

サバイバル状態だった日本映画学校時代

 学生時代に演劇を嗜んだものの、役者は向かないと悟り、高校卒業後に映画監督を志し日本映画学校に入学。3年間演出を学んだ。

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「学校では実習ばかりでした。1年から、フイルムを扱うんです。ジーッと撮って、ガッチャンガッチャン切ってテープでつなげて編集して。最初は100フィート実習といって、ベルハウエルという16ミリカメラ。1リール100フィートで、換算すると3分ないので、2分半ぐらいのシナリオを書いて。100フィート実習、500フィート実習、卒業制作、みんなで協力しなきゃいけない」

全文は発売中の「週刊文春WOMAN」2021 創刊2周年記念号に掲載

 当然、誰もが監督を務めたがる。

「同じ学費を払っていても、全員が監督をできるわけじゃない。投票で決めたり、先生が決めたり、脚本がよかった人が監督もやったり。決まったら決まったで、相容れない人が『この脚本のここがつまらない』と糾弾したりする(笑)。

 みんなどんどん心を病んで辞めていくし、1年目と3年目で風貌から様変わりする人もいるし。サバイバル状態でした。『あ、世の中にはこんな人がいるんだ』って、多種多様な人を見られたのは勉強になりました。その後、仕事で風変わりな人と会ってもあまりびっくりしない(笑)」

役者を諦め、監督を諦め、最後のよすがが脚本だった

 卒業後、ドキュメンタリー制作会社に就職した。

「そもそも映画学校なんて、求人もろくに来ないわけですよ。だけど学校としては就職率を上げなきゃいけない。日活ロマンポルノの武田一成監督が当時の担任で、私のためというより、野木なら通りそうだからと『おまえ行ってこい』と言われて。私も卒業制作に追われて深く考えずで。そうしたらそのまま採用されて。なにをやりたいかも考えていなかったんだけど、いろいろ勉強になりました」

 複数の制作会社でドキュメンタリー現場を経験したのち、臨機応変に即断しなければならない監督という仕事も、自分には不向きと確信する。役者を諦め、監督を諦め、映像の仕事に携わる最後のよすがが脚本だった。

 30歳を目前にし、野木は一旦ドキュメンタリーの仕事から離れ、書く時間をつくるため、アルバイトや派遣の仕事を始めた。