「スタジオジブリ」といえば、その名を知らない人はいないだろう。『となりのトトロ』『千と千尋の神隠し』など、日本を代表するアニメ映画を作り出したスタジオである。そんなスタジオジブリの宮崎駿監督は、以前に中日ドラゴンズファンクラブのマスコットキャラクター「ガブリ」をデザインした。一見すると接点がない両者をつなぐ存在が、スタジオジブリを30年以上に渡って率いてきた鈴木敏夫プロデューサーだ。大のドラゴンズファンだという鈴木さんには今のドラゴンズがどう見えているのか。2月の練習試合が始まった時期に話を聞いた。
ラジオが木っ端微塵! 幼少期の壮絶なドラゴンズにまつわる思い出
御年72歳の鈴木さん。4月29日から公開の新作CGアニメ映画『アーヤと魔女』をプロデュースし、2022年秋に開業と発表された「ジブリパーク」の建設にも携わるなど、現在も多忙な毎日を過ごす。それでも
「春のキャンプは全部録画して見てますよ。シーズン中も、夜に録画した中日の全試合を最初から最後まで必ず見るんです。結果を知らない状態で。だから僕の前で結果を言ったやつはタダじゃおかない(笑)」
と、鈴木さんはのっけから確かなドラゴンズ愛を披露した。愛知県名古屋市出身の鈴木さんにとって、ドラゴンズは幼少期から自然な存在だった。
「当時は毎夜、試合をラジオ中継で聞いてました。中日が負けると、まあ大変で。親父が怒り狂ってラジオをぶん投げるんですよ。もちろんラジオは木っ端微塵になって、母が買い直しに行ってました」
“昭和の父親”を絵に描いたような、激しいお父さんである。さらに、当時のドラゴンズの応援にかける熱意は、かなり過激なものがあったそうだ。
「中日球場にもよく連れていってもらって、外野席で親父と観戦しましたよ。そのころの腰掛けは木製でね。あるときに巨人戦を観戦していたら中日が負けそうになった。そうすると頭にきて、腰掛けを壊してそれに火をつけたんですよ。あの光景は生涯忘れられないなあ」
鈴木さんの幼少期は中日スポーツが発刊間もないころだった。宅配購読していた鈴木さんが毎朝欠かさず目を通していたのは打撃20傑だった。
「選手ひとりひとりの打席数、打点や本塁打数といった項目を、毎朝起きたら覚えちゃうんです。実は僕は数字を写真で撮るようにして覚えることができるんですよ。こうして毎朝覚えることを社会人になるぐらいまでやっていたから、かなり数字を見る訓練ができたと思いますね」
鈴木さんは大学進学を機に上京、そして徳間書店へ入社する。そこで配属されたのが週刊誌「週刊アサヒ芸能」だった。記者を務めていた鈴木さんは1974年にドラゴンズが2度目のリーグ優勝を勝ち取った際に、特集記事の取材のため中日球場を訪れたことがあったという。その後、アニメ情報誌「アニメージュ」創刊に携わり、やがてスタジオジブリのプロデューサーを務めることになる。ちなみに、鈴木さんは現在でもアニメの本より、愛読書である「プロ野球 三国志」など野球の本を多く持っている。この話もまた、鈴木さんの野球好きを示す一面といえるだろう。
与田監督よ、腰を据えて選手を使い、勝つことに貪欲であれ!
冒頭で書いたように、シーズン中は録画した全試合を欠かさず見るという鈴木さん。その大きな助けになっているのが、昨今の野球中継の視聴では必須となっているCS放送。これにより東京にいながらにして全試合の視聴が可能になった。CS放送が普及し始めたころ、ドラゴンズでは落合博満が監督に就任する。
「それはもう、落合野球をたっぷりと堪能しましたよ。落合監督は毎年100試合ぐらいかけて戦力を見極めて、シーズンの最終盤でバーッと勝っていく。夜に録画したものを見ていると、まるで連続ドラマを毎晩見ているようで楽しかったですねえ。落合監督時代で一番印象に残っているのは2011年の大野雄大のデビュー戦かな。勝てば優勝の試合で、大野はボコボコに打たれて真っ青な顔をしているけど、ベンチを見ると落合監督はニコニコしてるの。まるで『こんな展開でなかなか投げられないんだぞ』って大野を諭しているように見えたんです。優勝がかかった試合なのに、どっしり構えてすごい監督だなあと思いました」
落合監督時代について語る鈴木さんの表情はとても晴れやか。ところが、現在の与田剛監督やチームのことについての話題になると、その表情はキリッとしたものに変わった。