交流戦9勝6敗3分け! まさかの最下位脱出! 5連勝で6月フィニッシュ! 月間12勝8敗3分け!と、春のことを思うと頬をつねりたくなるような好調のベイスターズ。『少女に何が起ったか』でキョンキョンの味方大津先生を演じた俳優・辰巳琢郎も“ベイスターズは勢いがあり、今は12球団で一番強いんじゃないかなぁ...”と虎法被姿と共にツイートするほどで、ガチな阪神ファン著名人にそう書かれるとムズ痒くなってしまう。ちなみに辰巳さんはその後もツイッターでデッドボールを受けた桑原を心配していた。
いい流れで交流戦を終えた直後の広島戦を頼みの濱ちゃんで落とし、2戦目も序盤から劣勢に立たされた時は正直頭を抱えた。9回表を終え4対12。普通なら諦めるところだけど、“やられたらやり返せ”の番長イズムで宮﨑の満塁弾、さらには連続タイムリーで7点返してしまう。最後は1点及ばずも、過去最高レベルの“追いつかない程度の反撃”をしたベイ。翌日は逆に6点リードの9回に追いつかれそうになり肝を冷やしたが、このあたりでファンの多くは“今年はもう打って打って打ちまくるしかねえや!”というモードになったのではないか。
思えば今年はいきなり乱打戦で幕を開けた。開幕6連敗を象徴する4月1日ヤクルト戦(11対11)なんて完全なバカ試合だし、先日の11対12もそう。さらに言えばベイスターズ自体が伝統的にバカ試合をやりがちなチームなのである。これを機にネットではあまり出てこない大洋ホエールズ時代を中心としたバカ試合の歴史を軽く振り返ってみたい。
80年代で最もアツい「バカ試合」
一般的に「バカ試合」は点の取り合いで両リームとも大量得点になった試合を意味するが、投高打低の時代でチーム防御率は3点台前半が当たり前、下手すりゃ2点台という60年代~70年代初頭にはほぼ見られない。1971年の大洋を見ると驚異の防御率2.31。当然12球団一だ。それなのに3位がやっとなのは何しろ打てなかったから。チーム打率は逆の意味で驚異の.216(12球団最下位)である。
大洋の場合、投手陣が弱体化し打つ方が良くなる1974年あたりからちょくちょくバカ試合をやるようになる。この時代最大のバカ試合トピックスは1975年8月26日の阪神戦。5回までに松原誠のホームランなど15安打を放ち13対1。完全な楽勝ムードだが、そこからコツコツと9点を奪われ終わってみれば13対10。12点差からの逆転は日本プロ野球史上例がないとはいえ(最大は10点差からの逆転が4例)、結構ギリギリで逃げ切っている。1977年5月28日広島戦も壮絶で、序盤に7対0と大量リードするも中盤3イニングで13失点の大炎上。それでも7回2点、9回3点を取って12対16に持ち込んでいる。この年は開幕早々巨人戦で10対12をやらかしているし、横浜スタジアムに移転した1978年は5月2日阪神戦で8対0からの大逆転負け(9対10)を喫している。
暗くなるので勝った方のバカ試合も。1979年6月22日のヤクルト戦は2対0から2対6と逆転され、その後同点に追いつくもすぐさま6対9に。しかし8回に再び同点とし、最後は田代富雄のサヨナラ打で10対9。絵に描いたようなシーソー・ゲームである。
80年代の大洋バカ試合で最もアツいのが1982年5月23日、県営宮城球場での中日戦だ。この試合0対5から6対9まで持ち込み、9回裏も2死からの3連打で中日のリリーフ鈴木孝政を攻め込む。ここで迎えるはこの年の首位打者・長崎啓二。ストレートを振り抜いた打球は当時芝生席だった宮城球場のライトスタンドに飛び込むおつりなしの逆転満塁サヨナラ弾。感動的な10対9のバカ試合だった。
この試合で大洋は仙台で前年から4連勝をマーク。翌年も連勝し仙台6連勝。1984年も仙台での初戦を勝ち、5月27日の2戦目は0対7から同点に追いつき最後は西村博巳のサヨナラ打で8対7の大逆転勝利。この試合は『ファンマガジン横浜大洋』で特集が組まれ、ファンの間では仙台不敗説が囁かれた。先日の交流戦で楽天生命パークの右翼席に横浜ファンが大挙して押し寄せ話題になったが、遠征組だけではなく元々仙台は大洋~横浜ファンが多い土地柄だと感じている。大魔神佐々木主浩、斎藤隆の出身地であることはもちろん、70~80年代に毎年仙台シリーズを開催し、この時期劇的勝利の連続で8連勝を飾ったこともひとつの理由ではなかろうか。閑話休題。