「大島康徳 1950 10.16~2021 6.30」 7月6日、西武10回戦は特別な試合になった。大島さん、旭川スタルヒン球場のビジョンにあなたのライフタイムが掲示されて、縦縞のFsユニホーム姿の写真が映ってる。両軍選手、監督、コーチはベンチ前に整列している。ファイターズは全員、喪章をつけている。あり得ないよ。僕はブログも「週ベ」連載(『負くっか魂‼』)も読み、ガン闘病のことは存じ上げてたけど、不思議に大島さんはいなくならないんじゃないかと錯覚していた。
あのエネルギーの塊(かたまり)みたいな人がこの世にいないなんて……。
場内アナウンスが観客に黙とうを呼び掛ける。GAORAのカメラが栗山英樹監督を映し、それから並んで立つ小笠原道大、金子誠両コーチを映した。もうここで僕は涙腺崩壊だ。大島さんが監督を務められた3シーズン(2000~2002)、戦績は3位、6位、5位と振るわなかったけど、小笠原と金子誠が本物になった。いや、あの時期は中村隼人や正田樹が出て来たり、新ネタも色々あったはずなんだけど、煎じ詰めたら小笠原と金子誠だ。その2人がマスク姿で寂しそうに立っている。その絵だけでプロ野球のドラマだ。
初対面でいきなり緊張と緩和を食らったあの日
僕はファイターズに大島康徳という熱血漢がいたことを若いファンにも知ってもらいたい。僕も取材やラジオ番組を通じて、何度もご一緒させていただいたが、本当に気持ちのいい人だった。曲がったことが大嫌い。思い込んだら命がけ。元々は中日でホームラン王を獲ったスラッガーだ。ファイターズへは87年オフ、トレード(田中富生・大宮龍男⇔大島康徳・曽田康二)でやって来た。2000本安打をファイターズで達成した後は、次第に代打起用が増えていく。構えがでかくてカッコ良かった。代打満塁弾を1991年と94年、2度かっ飛ばしている。91年9月は東京ドームで西武・潮崎哲也から。94年5月は西武球場で新谷博から。代打満塁弾ってスーパーヒーローだよ。僕らは当時、どんな負け試合でも「大島出してくれよー。縁起もんだから最後に大島見せてくれよー」と客席から叫んだものだった。
引退試合のスピーチで打撃投手や裏方さんに感謝をささげたのも忘れられない。引退後はコーチ就任要請を断って、スーツ姿でNHK解説者を務める。上田利治氏退任の後、監督として再びファイターズのユニホームを着た。
僕には忘れられない出来事がある。監督に就任されて最初の年の名護キャンプだ。当時、僕は文化放送で自分の野球趣味を全開にした朝ワイド番組をやっていて、番組内でも様々なファイターズ連携企画にトライしたのだが、その年、ついに念願かなって名護キャンプから生放送が実現したのだ。正確に言えばファイターズの宿舎「ホテルゆがふいんおきなわ」のロビーからの生放送だ。朝8時半スタートだからニュースや(関東の)天気予報&交通情報やってる間に選手らに部屋から出てきてもらう。岩本勉や芝草宇宙、下柳剛、田口昌徳といった顔見知りの選手が出てくれた。そして、スタッフが交渉して大島さんにも出演していただいた。僕はその時点で大島さんと面識がない。大物だ。監督さんだ。緊張した。
選手らとコーナーを進めながら、第一部の終わりのパートで「大島監督から今季の意気込みを聞く」という構成になっていた。朝ワイドというのは(特に番組前半は)細かい情報コーナーをバラ売りしていて、それがルーティンになっている。元々、スポーツ番組じゃなく生活情報ワイドだからしょうがないんだけど、ちょっと僕と局アナの水谷加奈さんのやりとりが多くなる。
と、監督コーナーに出てきた大島さんが「選手にしゃべらせなさいよ。自分だけでしゃべりすぎだよ」と開口一番カンカンなのだ。びびった。これが瞬間湯沸かし器ってやつか。僕も水谷アナも一瞬、言葉を失ってしまった。即席ブースに並んだ選手らもポカンとしている。とにかく平謝りに謝って、進行台本通り今季の意気込みをうかがったのだ。そうするとさっきまで怒髪天を衝く勢いだった人が「オレ、恥ずかしい話だけど、名護に来て太っちゃった。食事メニューが単調だなと思ってたんだけど、体重計ったら太ってた。まいったよ」と言い出す。あ、ホントに「瞬間」湯沸かし器なんだなと思う。桂枝雀じゃないけど緊張と緩和だ。そのような単調な(他に楽しみのない?)環境で選手にはとことん野球に打ち込んでもらう、とのことだった。
ハンパない大島さんの「圧」のなかで自分を伸ばした小笠原と金子誠
監督コーナーが終わって、大島さんを送り出してからは「加奈ちゃん、さっきさ、監督に怒られたー。オレ何か選手になったみたいで嬉しかった」など言って自由自在だ。選手らもリラックスしてトークが跳ねる。
だけど、大島さんハンパないなぁという印象が残った。まっすぐなのだ。ラジオに出て開口一番カンカンになるという、パーソナリティーの強さ。妥協のなさ。誰にどう思われるかよりも正しいことは正しい、間違ってることを間違ってると言うほうを優先する速度感。これは何となく大沢親分っぽい。試合が面白くなりそうだぞと思った。
※大島監督で語り草なのは就任1年目、投手交代でマウンドへ行ったものの話が盛り上がりすぎて、交代忘れてベンチへ帰ってきちゃった話(高橋憲幸は続投→ヤケクソで抑える)。それから左翼ポール際大飛球のホームラン判定に猛抗議して21分間の中断、ついには退場を食らって、監督室で嘔吐、急性胃炎で救急車で運ばれた話(その晩のスポーツニュースでファウルが確認される)。本当にハンパないのだ。
小笠原と金子誠はそのハンパない監督さんの「圧」のなかで自分を伸ばした。小笠原は上田監督の最終年、「バントをしない2番打者」として大いに売り出し、大島監督の代になってからリーグを代表する打者に成長した。起用法で面白かったのは2年目(2001年)、1番打者にしたことだ。この時期は大方のファンにとって「ガッツの孤軍奮闘」の印象だろう。あのとき「焼け石に水」「ひとり気を吐く」小笠原は2番を打ち、1番を打ち、片岡篤史が去ってからは3番を打った。小笠原もまた自分を曲げない男だった。「1番だから(2番だから)こういうバッティングをして打線をリードしてくれ」的な要望があったのかどうか。ぜんぜん関係なくフルスイングで応え続けた。そこに僕は緊張関係を見る。「圧」とそれをはね返す力。大打者・小笠原道大のブレークにそれが関与したと見る。