背番号。

 それはただ選手を見分けるための番号ではない。様々なスポーツにおいて背番号が導入されているが、80年以上の歴史があるプロ野球では背番号には、数字以上のたくさんの意味があると私は感じています。

 ただの数字がファンの憧れや期待を集めて、時代を輝かせたスター選手を象徴するものになる。その功績を讃え、永久欠番としてチームに残り続ける番号もあるが、 次世代の選手に期待を込めて受け継がれることが大半です。

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 受け継いだ者には容赦なく重圧がのしかかるが、乗り越えた先には大きな栄光と新たな歴史が数字に刻まれていく。近年のホークスでは小久保裕紀ヘッドコーチから柳田悠岐選手へ受け継がれた「9」や、 野村克也氏から甲斐拓也選手へ受け継がれた「19」が記憶に新しい。どちらもホークスに大きく貢献されたレジェンドから次の時代を担う選手へバトンが渡されました。

 しかし、2021年の現在でチームを代表する番号でありながら受け継がれずにいる番号があります。

 それは「1」。

 昨年までは内川聖一選手がつけていた番号ですが退団された後は欠番となっています。野球において「1」は特別な番号です。高校野球ではエースがつける番号であり、読売ジャイアンツでは世界のホームラン王である王会長がつけて永久欠番となっています。

 ホークスで次に「1」をつける選手は誰になるでしょう。

 そんなことを考えていたら、歴代の背番号「1」をつけた選手を知りたくなったので今回調べてみることにしました。 完全に趣味の内容ですが、お付き合いください。

昨年まで背番号「1」をつけていた内川聖一 ©文藝春秋

背番号「1」をつけていた印象的な選手たち

 南海時代に球団創立された1938年以来、背番号「1」をつけた選手は18名でした。1938年は私の父も生まれていない時代です。改めてその歴史の長さを実感します。

 岩本義行 1938年、1940年〜1942年/鶴岡一人 1946年/後田二郎 1947年/藤江清志 1953年〜1954年 /飯島滋弥 1955年/金彦任重 1956年〜1960年/バディ・ピート 1961年〜1963年/ジョニー・ローガン 1964年/井上登 1965年〜1966年/ドン・ブレイザー 1967年〜1969年/古葉竹識 1970年〜1971年/桜井輝秀 1972年〜1982年/立石充男 1983年/ジェフ・ドイル 1984年〜1985年/小川史 1986年〜1993年/秋山幸二 1994年〜2002年/柴原洋 2004年〜2011年/内川聖一 2012年〜2020年

 短い年数の選手が多いですが、近年は長くつけられているようです。素晴らしい選手がたくさんいる中で印象的な選手をご紹介します。

 岩本義行……初代背番号1。そして球団の初代主将を務めた選手です。入団した1938年の開幕前に応召され、1940年に復帰します。南海では1942年までプレー、戦後の1950年には日本プロ野球初のトリプルスリーを達成されました。第二次世界大戦の中、日本のプロ野球の発展に貢献された方です。現役引退後は監督・コーチを務められました。1981年に野球殿堂入りされています。今のホークスはこの人から始まったといっても過言ではないでしょう。現代で経験のない私には戦時中や戦後の大変さは想像することもできませんが、 野球が日本中の傷を癒やし、活力になっていたことは間違いないでしょう。 その中心となって活躍された岩本義行氏には尊敬の気持ち以外出てきません。

 鶴岡一人 / 山本一人……1946年に1年だけ背番号「1」をつけたのが、後に親分と呼ばれる鶴岡一人氏です。 1939年に入団しますが、1940年に召集され1945年まで従軍します。1946年に選手兼監督としてプロ野球に復帰されます。 当時は婿入りした家の名字である山本での登録でした。そこから南海黄金時代を築き上げていかれます。その中、優勝監督でMVPという偉業を3回も達成されます。1952年に現役引退された後も1968年まで監督を続けられ、通算1773勝は史上最多です。現代のデータ野球の基礎となる部分を構築されたそうです。また野村克也氏など多くのスター選手を育成されたり、現在の育成枠に近いシステムや少年野球のリトルホークスを設立されたりと多方面でホークスに貢献されました。 同じチームを23年間も監督される方はおそらく今後出ないと思います。それだけホークスへの愛と情熱を注がれ、それに選手やファンが集まったのでしょう。親分と呼ばれる所以を感じました。

一球入魂 ©原愛梨