去る12月3日に開かれた、横浜DeNAベイスターズの新入団選手発表会。ファンをアッと驚かせたのは、ドラフト1位の小園健太投手に背番号18が与えられたことだった。

 三浦大輔が長らく背負った18番。1軍監督就任後は空き番となり、次に誰がつけるかが注目されたが、実は三浦監督が現役を引退した際に自ら後継者を決めることになっていた。そして今秋のドラフト会議、見事小園との交渉権を獲得した三浦監督は、すぐさま三原球団代表に打診し小園への譲渡を内定。仮契約の場で「小園の番号にしてくれ」と伝えたという。

 当の小園は会見で「本当にびっくりしました。それだけ期待されていると感じた」と語り、小園に18番の重圧がかかる心配はないかと問われた三浦監督は「そのプレッシャーで勝てないようであればプロではできない」と返答。こうして18番は三浦番長から大物ルーキーへと受け継がれたのである。

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三浦監督から背番号「18」を継承されたドラフト1位・小園健太

 プロ野球草創期の伝説的ピッチャーである若林忠志や野口二郎、V・スタルヒンらが背負ったこと。巨人で中尾碩志、藤田元司、堀内恒夫と大投手に受け継がれたことなど、18番がエースナンバーとなった由来は諸説ある。しかしホエールズ~ベイスターズ70余年の歴史をみると、かつて背番号18は紆余曲折の連続だった。そのあたりを振り返ってみたい。

存在感があったホエールズ初期のエースナンバー

 1950年、大洋ホエールズ結成年に18番をつけたのは戦後阪急ブレーブスで20勝を2度マークするなどエース級の活躍を見せ、移籍してきた今西錬太郎である。今西は球団の初代開幕投手を務め完封勝利。この年10勝をマークする。その後は低迷したものの、過去の実績を鑑みても今西はエースナンバーを背負うにふさわしい投手だ。今西は2019年のCS第1戦において18のユニフォーム姿で始球式に登場。95歳にして健在ぶりをアピールしたのは記憶に新しい。

 次に背負ったのは53年に15勝を挙げ新人王に輝いた権藤正利。入団時の51番から活躍が認められての18番昇格だった。権藤はその後、年跨ぎの28連敗を喫するなど苦しんだ時期もあるが、60年は12勝5敗、防御率1.42の好成績で大洋初優勝に大きく貢献している。

 権藤の後を引き継いだのは橋戸賞に輝くなど社会人で活躍し大洋入りした佐々木吉郎。主に中継ぎやローテーション谷間の先発で起用された投手で、自己最高は66年の8勝だが、この年5月1日の広島戦で球団史上2人目の完全試合を達成。球史にその名を刻んだ。

 と、ここまではそれなりの存在感があったホエールズのエースナンバー。しかし72年途中から背負った鵜沢達雄はその年の5勝が最高で、「王貞治に700号本塁打を打たれた投手」と逆の意味で名を刻んでしまう。80年ドラフトで原辰徳の外れ1位で指名され、1年目から18番を背負った広瀬新太郎は、期待に応えられず大洋では2勝どまり。85年、開幕早々のヤクルト戦でローテーションの谷間で先発し6回を零封。勝ち投手になった時は「広瀬の新ちゃんがついに!」と全大洋ファンが期待に胸を膨らませたものの、そこまでだった。