プロ野球選手のほとんどが、子供の頃に憧れていたスターがいるだろう。茂木栄五郎内野手にとってのマイ・ヒーローは、かつてのチームの先輩で現在は西武でヘッドコーチを務める松井稼頭央だった。
「いつか稼頭央さんと同じ場所でプレーしたい」
少年時代に思い描いていた夢を実現した茂木の歩みを記す。
熱烈なレオ党だった少年時代
幼い頃から家族で野球観戦に訪れるのが何よりの楽しみとしていた。小学1年生の時に初めて訪れた西武ドームで茂木少年の目にまぶしく映ったのが、当時の球界No.1ショート。この頃は、兄弟4人と一緒に地元の東京・小金井市からほど足しげく通い、ファンクラブに入るほどの熱烈なレオ党だった。
5歳上の兄・龍五郎さんの影響で6歳から野球を始めた茂木。現在は左打ちだが、キャリアのスタートが右打ちだったことはあまり知られていない。母・美恵子さんが「運動会のかけっこでは負けたことがなかったですね」と振り返るように、足が速かったこともあり、父・龍夫さんが両打ちを勧めたことで左打ちも練習するようになった。
当時の球界を代表するスイッチヒッターのプレーを球場に行けない時はテレビにかじりつくように見入った。「テレビのスポーツニュースのハイライトで西武をよく見ていてプレーがとにかく格好良かった。守備もすごくて、肩も強い。打撃も右でも左でもホームランを打てて、盗塁もできる。走・攻・守どの部分でもスター性がありました」。華々しいプレースタイルに少年の心は鷲づかみにされていた。
「憧れ」の存在を手本に、プロが「目標」へと変わっていった。
やるならとことんやる――。
父との猛特訓が始まった。「左は右の3倍、練習をしていました。最初は全然打てなかった。でも努力してましたから」と龍夫さん。練習量はどんどん増えた。小学6年生になると自宅近くのグラウンドで夜明け前の早朝4時からほぼ毎日1~2時間バットを振った。ボールの打球音が出ると近所の迷惑になるため、丸めた紙をテープで巻いた球を打ち込む毎日。龍夫さんは中学2年の終わりまで何万回もトスを上げた。「あれで芯に当てる技術がつきましたね」と龍夫さんは懐かしそうに振り返る。茂木自身も今の打撃があるのは「父のおかげ」と感謝を忘れたことはない。
神奈川の名門・桐蔭学園高に進んでからは快足を生かせる打撃を求めて左打ちに専念した。卒業後は東京六大学リーグの名門・早大では主軸を張るまでに成長。一気に素質が開花し、大学日本代表も経験した。走攻守3拍子そろった即戦力内野手への評価は高く、2015年のドラフト3位で楽天入団が決まり、憧れの選手とともにプレーできる舞台にたどり着いた。