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「イヤだな……と気持ちが乗っていなかった」

 思い出したくない過去かもしれない。それでも吉川は嫌な顔をせず、話し続けてくれた。

「自分としては、最初は高卒で社会人野球にいけたらなと思っていました。父も高卒で社会人野球でプレーしていました。野球のレベルが高くてお金(給料)ももらえる。野球部をもつ大きな企業に入れたら、後々の人生も大丈夫かな、と」

 一方、監督の判断もよくわかる。中京高から亜細亜大への進学は、松田宣浩(巨人)らが歩んだ王道コースだ。高卒でのプロ入りは時期尚早で、社会人野球の採用枠は全国的に少ないとなれば、有望株を真っ先に名門大学へ送り出すのは自然な親心だし、責務でもある。1ヵ月弱で尻尾を巻いて逃げ出す展開など、さすがに想像しない。

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「高校の監督さんから『大学でやってみろ。お前の一番行きたくない大学かもしれないけれど』と言われて。その流れでセレクションに行くことになり、入学も決まりました。でも、しんどいイメージしかないんですよ。みんなそう言うし、マジでやばいかなと。気持ちが入って現場に行ったら、それなりにはやってこれるんですけど、最初から行く気もなくて、イヤだな……と気持ちが乗っていなかったら、全然だめでした」

 抗いづらい流れの中で進学先が決まった吉川と、自由意志で就職を決めた筆者を同列に扱うのは、彼に失礼かもしれない。また、彼も私も覚悟が甘い部分はあっただろう。亜細亜大が厳しいチームだったとしても、そこで大成した選手は数知れないのだから。

 ただ、“来るべきではなかった”世界に来てしまい、ある程度の期間を過ごすと決まっている、あの絶望感。目の前の1週間が耐えられない。傷心で飛行機のチケットを予約した吉川と、社宅から引越し業者を手配したかつての私の姿は、やっぱり似ていると思うのだ。

中京学院大時代の吉川と筆者 ©尾関雄一朗

逃げるは恥だが……

 当時のインタビューの最後を、吉川はこう締めくくっている。

「亜細亜大のキャンプを離れて岐阜に帰るとき、もう野球は辞めて地元で働こうと思っていました。あと、地元のみんなには顔向けできず、会いたくないと思いました。親にもお金を出してもらっていたのに……。いろんな人の期待を裏切り、迷惑をかけました。でも、みんな受け入れてくれたし、高校の監督さんも亜細亜大に説明に行ってくれて。ありがたかったですし、ここ(中京学院大)でしっかりやってプロに行くことが、今できる最高の恩返しだと思うんです」

 人間誰しも、どうしても環境が合わなかったり、心が悲鳴をあげたりすることはある。そんなとき、逃げるのも立派な一つの道だろう。リセットしたら、またやり直せばよい。吉川を取材して、そう思った。

 今この瞬間にも、世間のどこかに、つらい思いをしている人はいる。筆者の交友関係の中でも、仕事などで思い悩み、悲しいことになった人を知っている。もちろん事情はさまざまで、軽々しいことは言えないが、あまりに追い詰められたら、離れ去るのも手だ。新卒3ヵ月で辞めた自分でも一応、なんとかなっている。

 そして最後に、昔の苦いエピソードをこのコラムで掘り起こし、吉川選手には申し訳ない気持ちもある。ただ、ファンがプロ野球選手に憧れるのは、グラウンド上のプレーだけが理由ではない。その生きざまに己の人生を投影し、救われているのだ。

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