窓辺で風鈴がゆれている。赤ヘルの下で古葉竹識さんの笑顔がゆれている。
「あれからもう2年なんやな」
カープを4度優勝に導いた名将が他界されたのは2021年の秋だった。
ここ5年で逝去されたカープレジェンドの想い出を並べて
ふと、20番のサインボールと目が合う。古葉さんが、入団2年目にして「将来、球界を代表するピッチャーになる」と言い切ったのが北別府学さんだった。
「今日は、北別府さんの初盆か……」
6月の訃報には反応できなかった。言葉にすると嘘になりそうでコメントも発信しなかった。古葉さんのときも、衣笠祥雄さんのときも。
北別府さんとは何度も共演させていただき、僕の原作の映画(「鯉のはなシアター」)にも出演してくださった。
最初にお会いしたとき「元テニス部ですよね?」と言ったら、「何で知ってるの!?」と大笑いされ、『選手よりもカープを知ってる危ない人』というあだ名を拝命した。
「危ない人らしくいこうか」
今日はお盆。彼らもご自宅に戻ってらっしゃるだろう。仕事の手を止め、ここ5年で逝去されたカープレジェンドの想い出を並べ、真っ昼間から呑むことにした。
北別府さんの『記念盃』に酒を注ぐ。1986年、沢村賞、最多勝、最優秀防御率、MVPなどを総なめにした年の一品だ。
座右の銘は『不動心』。その言葉どおり、北別府さんはマウンドでも、ユニフォームを脱いだあとの解説席でもクール。いい意味で感情を表に出さない方だった。
しかし、先述した映画が完成したときのこと。北別府さんは僕の耳元で「カープにとって大切な話を描いてくれてありがとう」と囁き、痛いくらい手を握ってくださった。精密機械と呼ばれた名投手が胸に秘めていた“カープ愛”にふれた瞬間だった。
カープを支えた助っ人たち
●ギャレットさん(2021逝去)
●シェーンさん(2021逝去)
カープの助っ人として球団初の40号HRを記録、日本プロ野球記録タイ(当時)の月間15HRを放ち、王貞治氏と週刊ベースボールの表紙を飾ったのがギャレットさんだった。
1975年初優勝の立役者の一人、シェーンさん(本名・シェインブラム)もギャレットさんと同じ年に他界された。
生前、ともに初優勝を飾ったホプキンス氏と番組に出演していただいたとき、当初1年契約だったホプキンス氏が延長を打診され、「シェーンと一緒なら再契約するよ」と、“あくまで2人で”にこだわったという裏話をしたときの、シェーンさんの子供のような笑顔が今も忘れられない。
●フィーバー平山さん(2021逝去)
●銭村健三さん(2018逝去)
ホプキンスやギャレット、平成に活躍したロペスやチェコといった良質な助っ人を日本に送り込んだのが、在米スカウトとして活躍し、黎明期に機動力野球をカープにもたらしたフィーバー平山さんだ。
生前、故郷のアメリカでインタビューに答えていただいたとき、「私が来日したとき(1955)、数万人の広島市民が出迎えてくれた。あのときの感動を忘れられない」と語っていた。その後の生涯にわたる広島への献身は、彼の瞼の裏にその光景がいつまでも焼きついていたからだろう。
1953年に来日し、カープ初の米国籍選手として活躍した銭村健三さんとともに功績を称えたい。