「そうこれが現在(いま)の僕の姿 It’s just my life
未来の僕はもっとマシな姿 It’s just my life」
GLAYの『HEROES』(作詞・作曲:TERU)の始まりの歌詞。石川直也投手がずっと登場曲に使ってきた曲の歌詞が、ここ何年かの彼を思うと、まるで寄り添っているかのようですっとしみてくる。
10月、石川直也投手は宮崎にいた。高卒9年目のシーズン、若手中心のフェニックスリーグに石川投手はいた。節目に向けて彼はもうとっくに走り出している。
この先しばらくは石川直也投手が守護神の時代が続く、私達はそう信じていた
ちょく、石川直也投手のニックネーム。入団した頃、ファイターズには石川姓が3人。石川慎吾選手、石川亮選手、そして一番の後輩が石川直也投手。直也の直を「ちょく」と呼び始めたのは現・マリーンズの石川慎吾選手だったそうだ。その呼び名はあっという間にチーム内で広まり、当時の監督・栗山英樹さんもマスコミの前でもそう呼んだ。
2014年のドラフトは9位までの指名中、7人が高校生だった。今もファイターズに所属する同期には清水優心選手、淺間大基選手がいる。入団会見や鎌ケ谷での新人合同自主トレのわちゃわちゃした感じを今もよく覚えている。アオハル成分多めのいい光景だった。そんな彼らももう来季プロ10年目を迎える。
石川投手は4年目の2018年、開幕1軍を抑えとして迎えた。前年まで守護神を務めた増井浩俊投手は更に高みを求めてFAでバファローズに移籍、その後釜として期待された鍵谷陽平投手の故障によるめぐりあわせだった。プロになった時に「先発をするか、クローザーをするかのどちらかのイメージを持っていた」という彼にとっては大チャンスだった。しかし、経験の浅い若い守護神は打ち込まれる試合もあった。
あの当時の石川投手はピンチになって焦るとそれがそのまま表情に出た。色白の頬がみるみる濃いピンク色に染まっていく、懸命に目を見開き、荒くなる息遣いで開いた口元や首には汗が瞬きより速いスピードで滴り落ちる。あの頃、私たちはその姿が心配で心配で目を逸らすことが出来ず、石川投手のピンチのときはファンは一体となってみんなで瞬間を戦った。
打たれれば自分も大きなダメージを受け、落ち込むだけ落ち込み、結果とても疲れた。そんな試合を繰り返し、経験を積み、怪我や不調がありながらもその年の石川投手は52試合で19セーブをあげた。シーズンが終わる頃には圧倒的な抑えへのこだわりを彼から感じた。まだ高卒4年目で若い、この先しばらくは石川直也投手が守護神の時代が続く、私達はそう信じていた。
でも翌年、終わってみれば抑えを任されたのはスワローズからトレード移籍してきた秋吉亮投手だった。石川投手は序盤から調子が上がらず1軍と2軍の行ったり来たりを繰り返す、秋吉投手の代わりとして9回を投げることはあったけれど主にセットアッパーだった。
そして、2020年、パンデミックを知ったあの年。キャンプで右ひじに違和感を覚えた石川投手は、コロナの影響でずれ込んだ6月の開幕にも間に合わせることが出来なかった。やがて届く手術の報せ。右肘内側側副靭帯再建手術、8月のことだった。どうしてうまくいかないんだろうとしみじみ思った。そして野球選手という仕事は体に負担をかけることを改めて思った。
そこから始まるリハビリ生活、1年後の復帰の予定が延びて延びて、やっと10月のフェニックスに投げる姿があった。丸2年、1軍登板なし。いっときはあんなにひとつになったのに、ファンの記憶の中から最終回のひりひりする場面で投げる彼の姿が薄くなっていく。