晩秋のハマスタに鷹が舞い降りる。
4年ぶりの日本シリーズ、はじまりの舞台は横浜スタジアムだ。頂上決戦でベイスターズと顔を付き合わせるのは2017年以来となる。
あの時から変わらずチームの顔である柳田悠岐は「応援がとにかくすごい。それだけは覚えています」と懐かしんだ。柳田と横浜スタジアムといえば、2015年6月3日の交流戦で現・ベイスターズ監督の三浦大輔投手から打ったバックスクリーン上部のスコアビジョンを破壊したとんでもない本塁打が今も語り草なのだが、柳田本人に水を向けると「めっちゃ前なんで、あんまり覚えてないです。(横浜スタジアムといえば)鳩サブレの看板」と相変わらず“らしい”答えが返ってきた。
また、現在のホークスには「ギータ2世」の呼び声高い期待の若鷹がいる。4年目の22歳、笹川吉康だ。横浜市出身で通っていた西前小学校は横浜スタジアムから直線距離で約2キロという場所にあるバリバリの地元っ子。日本シリーズという最高の舞台で“凱旋”できるのを喜んでいた。
このシリーズ前に笹川が笑顔でそんな話をしているのを聞いてほっこりした気持ちになったのだが、ふと違う男の顔が頭に浮かんだ。
横浜スタジアムでの日本シリーズなのに、メンバーの中にその名前がない。それがたまらなく寂しく思えた。
松本裕樹である。
「まさかチームメイトになるなんて、あの頃は想像も出来なかったです」
彼もまた横浜で生まれ育った男だ。野球との出合いは4歳の頃。兄が所属していた南瀬谷ライオンズの練習に顔を出すようになったのがきっかけだった。そして小学校入学と同時に正式入部した。
「小学校2年生の頃にはピッチャーをやっていました。自分から希望したわけじゃなかったけど、気づいたらピッチャーでした」
幼少期から肩の強さには自信があり、どうやらチームの指導者がその才能に惚れ込んだらしい。もちろんプロ野球も見た。その当時は今に比べればテレビの地上波で巨人戦中継が行われていたし、地元のテレビ神奈川はベイスターズ戦が頻繁に放送されていた。だが、松本少年が夢中になったのは、パ・リーグで投げていたあの怪物投手だった。
「松坂(大輔)さんモデルのグラブを使っていました。僕が高学年になった頃にはメジャーリーガーに。僕がプロになって、まさかチームメイトになるなんて、あの頃は想像も出来なかったです」
その後、中学時代では硬式の瀬谷ボーイズを経て、高校は地元を離れて盛岡大学附属高校に進学した。
「モリフ(盛岡大附高)の監督が熱心に声を掛けてくださったのもあったし、ボーイズのチームの先輩も進んでいた。モリフに限らず、県外で野球をやっていた先輩たちも見ていると、凄く集中できる中で、良い環境の中で野球を頑張れるのかなと感じていました。僕は野球を始めた時からプロ野球選手になることを目指していたので、野球のことを第一に考えていました」
地元神奈川には全国屈指の強豪校が揃っている。中学時代に一定の実績を残していたことでいくつか誘いもあったが、それでも親元を離れて東北の地を選んだ。そして2014年ドラフト1位でホークスから指名を受けてプロ野球選手になった。
オスナが戦列を離れ、シーズン途中のストッパー転向
先発として期待された時期もあったが、リリーフに専任した2022年から才能が大きく開花。今季は50試合に登板した。シーズン前半はセットアッパーを務め、特に開幕から12戦連続無失点&ホールドを記録するチーム随一の安定感でスタートダッシュを支えて今季23ホールドを挙げた。
そして今年6月4日のドラゴンズ戦でプロ10年目にして初セーブを記録したのだが、その時はまさか“クローザー”を務めるなど想像もしていなかった。それから約1か月後の7月上旬、ロベルト・オスナが下半身コンディション不良を訴えて戦列を離れることに。するとすぐに小久保裕紀監督からストッパー転向を告げられた。
当初は「8回でも9回でも、変わらない気持ちで投げます」と話していたが、実際にマウンドに立つとギアの入り方が一段階違った。新守護神として最初の登板だった7月7日のイーグルス戦、2点リードの9回表でマウンドへ。先頭から2者連続で3球三振を奪い、最後は三ゴロでチームに勝利を運び今季2セーブ目を挙げた。直球はこの時点で自己最速タイの157キロをマーク。松本が「前の回にチームが逆転して自然と力も入りました。任される以上はゼロを積み重ねたい」と力を込めれば、小久保監督も「なかなかアドレナリンが出まくった良い投球でしたね」と笑顔を浮かべた。その後の試合では記録を更新する159キロも叩きだし、今季14セーブもマークした。